【記録文学論】第8回 井上光晴『地の群れ』 text 中里勇太

地の群れ曇天の空の下、ひどく短い咆哮が耳をつんざき、獣なのか、地を這い駆けるひび割れなのか、気づいたときにはもう取り囲まれている。

『地の群れ』という表題から、思い浮かべた光景だった。

物語は、長崎原爆の被爆者が身を寄せて暮らす「海塔新田」という架空の場所を舞台とし、強姦、殺人という事件のあいだに、原爆を投下された8月9日の長崎の情景が挟まれ、そこへ炭鉱、被差別部落、朝鮮、信仰、レッド・パージ、運動といった「戦後」の主題が複雑に絡みあい、圧倒的な凝縮度を持って展開される。

登場人物はみな、なにかを抱え、その傷のなかで蠢く。あるいは主題を背負わせれた、顔のない、のっぺらぼうの声を多声的に響かせる。たとえば、その主旋律を織りなすひとり、医師・宇南親雄。彼はまだ10代の頃、海底炭鉱で暮らしていた時分に安全灯婦・朱宝子を孕ませ自殺へ追いやった過去を持ち、長崎に原爆が落とされた翌日、父とその愛人ふたりを探しに爆心地に入った。また、幼い頃、父に離縁された母が差別部落出身であることを知りながら認めることができず、母が離縁した後浦上に住んでいたことを知ると、浦上天主堂の信者ではなかったか、とかすかな疑問を抱く。早死した共産党時代の同志の恋人だった妻との間には、母や同志の存在が横たわり、アルコールの溝を引かなければならない。だが、宇南が抱えることは、物語中に絡みあう主題の一端でしかない。

「佐世保の町外れ」とだけ明記される物語の舞台を構成するのは、海炭新田、部落、廃船場横のバタ屋部落、宇南親雄の診療所……。それらは噂話とともにひしめき合い、作家・井上光晴が描く小説の舞台として、区割される。そこで生活する人々の声は、井上の描く主題とともに、密集する群れとなり、読者へ襲いかかる。群れは、姿かたちを捉えられないどころか、名付けようもなく、結びつきあう因子も定かではない。しかし、結果、取り囲まれてしまう群れの獰猛さの表出、それはわれわれの身に潜む獰猛さの表出である。

『地の群れ』という物語に促されたわれわれは、この身に潜在する獰猛さを自覚し、冷たい血のようにからだを流れるそれによって、もともと群れ化していることに気づき、呆然とする。いったいわれわれのからだにはなにが刷り込まれているのか? じっさい、物語の終末には、姿を見せない群れによる凄惨な事件が起こるわけだが、にもかかわらず登場人物すべてが、その群れの成員でありつづけるだろうと予測される終結を迎える。

物語を読み、読者がいかなる情景を想像しようと、それはいかなる制約も設けられない。あるいはそれこそが小説を読むという行為である。

だが、海炭新田、部落、廃船場横のバタ屋部落、宇南親雄の診療所……を、囲い込まれた場所として想像し、その地図を描いたのはこの原稿の筆者である私の目である。傷や痛みを抱えているものたちとして括る私の目である。そして、「この小説には外部が描かれていない」と私が言うとき、その「外部」を想像したのも私の目である。蔑み、見下し、選り分けるものたちがいると、それすらももはや慣習となった目で括る私の目である。私を見ようともしない私の目である。

たしかに物語の舞台のまわりに広がるだろう「外部」は、分け隔てることでこの物語の舞台を追いやり、囲い込む。そして囲い込まれた場所で生きる群れは、また群れの内部を分け隔てる。顔のない、のっぺらぼうの視線で噂話をばらまき、囲い込む。私ではない誰かを選り分ける。われわれの無意識の視線のやりとりに、それが現れている。われわれこそ、囲い込まれた場所で生きるこの群れである。自らを充足させるために分け隔てる、そこでは獰猛さが容赦なく発揮される。われわれがつねに囲い込まれているということを忘れるために。その獰猛さが自らを縛り付けているとも知らずに、われわれは自らを囲い込み、そこに閉じこめられ、自らに激昂している。裏返せば、描かれなかった「外部」とは、われわれのうちにある。

われわれは、いったいいつまで、限りない狭さにおいて充足したからだでありつづけるのだろうか?

群れを横断する噂話や嘘、建前を話す人々の声が、「バタ屋部落のまわりを囲んでいる埋立地の汚れたあぶくあぶくのようにとめどもなく流れあふれる」

この物語に群れる彼ら―—「彼ら」とは誰だろうか―—彼らは外部へ叫ぶことはしない。叫ぼうにも外部は描かれていない。いや、たとえ外部が描かれていようと、彼らは叫ばないのかもしれない。彼らの叫びや訴えは、すぐに、顔の見えない無数の人々が投じた石によって葬られてしまうから。じっさい、物語のヒロインの福地徳子が言うように、闇に紛れて海炭新田に集ったのは、海炭新田で暮らす人々だけではなかった。徳子の母の叫びは、けっして囲いを内側から突き破るようなものではなく、外部によって引かれた線の再生産だったゆえに、石を投じられた。群れの意志という手招く闇の誘惑を拒めなかった人々は、石を投じ、そして再び噂話や嘘を通して群れの意志を伝播させる。

「どうしてそんなことが気になるんですか?」

8月9日原爆を落とされた長崎にいたことを隠そうとする家光弓子に対し、医師・宇南親雄が言い放つ。宇南は弓子の娘・安子の症状が「原爆病」に似ており、危険な状態であることを告げるが、母の弓子は、娘が原爆病であるはずがない、という一点に拘泥していた。

ここで「そんなこと」と言われる「原爆病」をはじめ、物語の登場人物が抱えた主題はいずれも「そんなこと」と片付けられるものではない。

だが、「それは「そんなこと」なんて片付けられるような問題ではない」と激昂するだけの視線と交わることはない、ということを念頭に置いたうえで、一方で、「そんなこと」と言い放ち、生の縦糸や横糸を織りなす噂や嘘を編み、またそれに囚われながら生き、ときにそれを群れを駆り立てる駆動力とすることは、抵抗の逃走線にもなりうる、ということは考えなければならない。

物語のなかで、徳子だけが逃走線を引こうとしていた。噂や親族といった幾重にも張られた網目をぬって、囲い込みからの逃走線を引こうとしていた。そして徳子に導かれるように、津山信夫が逃亡する……。だがそれは逃亡で終わるだろう。

【書誌情報】

『地の群れ』井上光晴 著 
初出1963年 1992年 河出文庫より発行  216ページ
※現在絶版


連載:記録文学論 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

※中里勇太さんは、11月3日19:00〜に開催される「neoneo」03刊行記念トークイベント「ゼロ年代(プラスワン)とドキュメンタリー:文学/記録/映画」にご登壇されます。

ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」03刊行記念トークイベント
★neoneo meets! ! 04
「ゼロ年代(プラスワン)とドキュメンタリー:文学/記録/映画」

日時 11月3日(日) 19:00-21:00
会場 下北沢B&B http://bookandbeer.com/
料金 1500円+ワンドリンク500円。 *ご予約はこちらから。
ゲスト 渡邉大輔氏(批評/映画史研究)+中里勇太氏(文芸批評/Zine「砂漠」)
進行 萩野亮(映画批評/neoneo編集室)

【執筆者プロフィール】

中里勇太(なかさと・ゆうた)
1981年宮城県生まれ。編集業・文筆業。現代詩文庫『岸田将幸詩集』(思潮社)、『寺山修司の迷宮世界』(洋泉社)、『KAWADE道の手帖 深沢七郎』、『文藝別冊 太宰治』、『文藝別冊 寺山修司』(以上、河出書房新社)などに寄稿。Zine「砂漠」。昨年は岩淵弘樹監督『サンタクロースをつかまえて』のパンフレット編集(製作:砂場)もつとめた。