【鼎談】クリス・マルケル特集上映記念『レベル5』をめぐって  越後谷卓司×渡辺真也×金子遊

仏教哲学と『レベル5』

金子:『ラ・ジュテ』や『サン・ソレイユ』に関する渡辺さんのブリリアントな読解はわかりました。今日見た『レベル5』には関しては、どのようにご覧になられているのでしょうか。

渡辺:いいですか?『レベル5』に関する渡辺説です。これは一言で言うと仏教の五蘊(ごうん)、パンチャ・スカンダpañca‐skandhaだと考えます。つまりこれは、唯識仏教のLevel 4 であるサンカーラと、Leverl 5であるヴィジュニャーニャを扱ったものだと私は考えます。これで非常に重要だと思うのは、本当に真面目に考えなくてはいけないと思うんだけれど、ローラはゲームではじまってゲームで終わるんですね。それは、動詞のかわりに名詞をインプットするという遊び、「犬」と打ちこむと、コンピュータは馬鹿だから「どう犬するのかわかりません」と答える。最後にクリスが打つのは「ローラ」ですが、そうすると「どうローラするのかわかりません」と、コンピュータが答えるんですね。これで重要なのは、名詞というのは動詞から派生したものだということ。

シュレーディンガーという有名な生物学者が、「What is life?」という本を書いていて、その答えが「生命は、エントロピー最大化に向かうために生まれた」でした。つまり、地球の熱死を早めるために生まれたのが生命であって、エントロピー最大化に向かっているというのが、シュレーディンガーの結論でした。それに対して一番噛みついたのが、チョムスキーだったんですね。チョムスキーは、「What is life?」という問いの立て方自体が文法的に間違っていて、「Lifeはliveという動詞から導かれた名詞であるから、liveというところからlifeを考えないかぎり、生命に対して問いかけることはできない」ということを述べていて、そこからチョムスキーは生成文法と平和運動に向かって行くわけなんですが、ここで重要なのは、名詞というのは、名詞が想定される時点で、それは動詞という行為主体が求められてしまうということなんですね。

つまり、私は今 drinkをしたわけなんですが、drinkすることによって、これがdrink(飲み物)になるわけです「飲む」行為によって、「飲み物」が生まれます。しかし、飲み物が存在すると、「渡辺さん、何故、それを飲んだの?」と聞かれた際に「何故なら、私は喉が乾いていたから」といった構文を作って答える必要が生まれて、その時に「私」が要請されてしまうんですね。

これに恐らく一番はじめに気がついたのがベルクソン。ベルクソンは、記憶というものは「私がバラの花の香りから記憶を導いたのではなくて、バラの花の香りの記憶の中に私の記憶が含まれる」という因果関係の転倒をしていった訳なんですね。そこからうまれていったのが、先程のプルーストの文学であったり、西田幾多郎の主語は述語に含まれる、というテーゼです。

つまり主体というフィクションを想定することによって、様々な不具合が生まれてくるわけですが、その主体を生んだのがデカルトの近代であって、その主体の「私」というのがサンカーラではなくて、ヴィジュニャーニャ、つまりレベル5だと。どういうことかというと、私というものを想定したときに、能動と受動とに切り離されてしまい、他者というものが対象化されてしまう。その対象化されたものを求めてしまう行為こそが、仏陀の禁止した「愛」なんですよね。

この映画『レベル5』を、私が20歳のときに観て衝撃を受けたのは、マルケル監督は愛を否定していると気がついたからです。何故なら、人は人を愛するが故に人を殺すから。映画の中で、マルケル監督は、母を殺めた経験を持つ金城重明神父の「愛するものの手で肉親を殺した方が、せめてもの慰めである」という言葉を紹介していて、その後やや唐突に、仏教の話が出て来る。結果から考えると、「人を殺すのは良くない」という想定に立てば、仏陀が到達した様に、愛は否定されなくてはいけない。おそらくマルケルは、自分が到達した境地に、まだ確信が持てていなかったと思う だからこそ私は、マルケルに会って、その話をしたかった。

マルケル監督は、この映画を、「どうローラするのかわかりません」と結んでいます。つまり、ローラはローラらしくあれば良いというサンカーラ、すなわちLevel 4の哲学であって、更に、このローラというのは、「ローラ」という映画を沖縄で一緒に見た夫が妻に与えたニックネームであり、彼女はそれを記憶しているのです。さらに、そこに集団自決という「命令(Command)」が入って来る。そういうものをテーマにしたのが『レベル5』だな。と、私は気がつきました。

金子:なるほど。僕には『レベル5』は愛を肯定する作品にも見えるのですが、いろいろな読み筋が可能ですね。それはなぜかというと、やはりこの映画が「沖縄」をテーマにしているからじゃないですか。

渡辺:
はい。

金子:みなさんご存知の通り、クリス・マルケルはセーヌ左岸派に分類され、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ジャン・ルーシュなど、ドキュメンタリーを出発点にして新しいフランス映画を作っていった人です。アラン・レネと一緒に『夜と霧』も作っています。レネの59年の映画に『ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)』があります。あの作品を軽く振り返っておくと、エマニュエル・リヴァが扮するフランスの女優が、原爆を落とされて壊滅させられた広島という町を戦後になって訪れて、岡田英次が扮する日本人の男性と恋仲になります。ふたりのベッドシーンにおける、岡田の「君はヒロシマをみていない」という地元の男性の言葉に対して、リヴァは「いや、私はヒロシマをみたわ」というやり取りをするところから、この映画ははじまります。それは何を言っているのかというと、広島という原爆が落とされた大惨事、ふつうの形ではひとりの人間にとって表象不可能な大惨事に対して、当事者でもないフランス人女性には、普通の形では、ヒロシマの町やその人々に共感や共苦(コンパッション)することはできないはずだ、わかりっこないということですね。

それはその通りなのですが、そこでエマニュエル・リヴァが持ち出してくるのが、彼女の個人的な最も痛烈な痛みの記憶なんです。それは映画の物語のなかでは、彼女はドイツに占領されたフランスにおいて、ナチスドイツの将校と戦時中のフランスで付き合っていて、コラボラトゥール、つまりは対独協力者として、ドイツ軍が引き揚げたあとにバッシングにあったわけです。その彼女の個人的に一番痛かった痛みを、広島という集団的な痛みに拮抗させることによって、単純には理解できないんだけれども、離接的に、異なって離れながらも共鳴させるということをやっている。

クリス・マルケルも『レベル5』のなかで、『ヒロシマ・モナムール』と似たようなことをしているなと思いました。沖縄戦という途方もない悲劇を前にして、たとえば『レベル5』のなかで出てくる金城さんが少年時代に自分の親を殴り殺したエピソードとか、集団自決やひめゆり学徒隊の話が出てきましが、それに対して、ローラという映画の物語のなかでは、一度や二度旅行で沖縄に行ったことがある程度のフランス人女性が、どのように沖縄でのできごとに共苦することができるのか、という問題をやろうとしています。ローラには失くした恋人の死、彼との決別という個人的に体験した痛みの経験を、その痛みの質や大きさもまったく違うのかもしれないけれど、沖縄戦の悲劇に対峙させることによって、なんとかギリギリのところで他者として沖縄の悲劇を理解しようとしている。「そんなことが他人に理解できるのか、これは私たちの問題なんだ」と沖縄の人たちに言われてしまったら、「そうかもしれない」としか返答できないかもしれません。しかし、彼女にとって最も切実な自分が愛を失った経験を、沖縄戦に対して提出してきている、その痛みの記憶を対峙させている。そこには、にわかにはつながらないけれども、遠くに離れていながらも響き合うような共鳴体みたいな形で、ローラが沖縄戦の記憶にアプローチしているというところがあります。ですので、僕にはむしろ『レベル5』は愛の物語に見えてしまうんですね。

渡辺:それに対して、後者はある程度賛成出来るんですが、前者は反対ですね。それは何故かと言うと、『ヒロシマ・モナムール』に関しては、ヌベールで敵兵を愛したが故に裏切り者扱いされてしまった女性が、ヒロシマの犠牲者に、その体験を投影して反戦映画を撮ろうとして、岡田英次が演じる建築家に向かって「私は、ヒロシマを見た」と言うわけです。その際、実際の広島のドキュメントと、彼女の中で想像されたであろう虚構としてのヒロシマの再現映像がモンタージュされます。次に、岡田英次は「君はヒロシマを見ていない」と応答します。「でも私は見たわ。病院にも行ったわ。」という時に、岡田英次が何をしたかというと、往復ビンタをするわけですよ。「お前は何も見ていないんだ!」という強力なステートメントです。

金子:そんな暴力的なシーンでしたっけ。

渡辺:重要なシーンです。これは、どういうことかと言うと、他者の痛みが究極的に理解できるかという問いと同時に、恐らく、自分の苦しみを通じてしか他者の痛みは理解できない訳だけれど、「お前、目を覚ませ」といった意味を、脚本家のマルグリット・デュラスは、あの作品に持たせたんだと思うんですね。更に、『ヒロシマ・モナムール』の次にレネが作ったのが、『去年マリエンバードで』ですけれど、マリエンバートは、ゲーム理論の話しで、マッチ棒を1本とって最後にとった奴が負けだよ。といって、では君から始めて、と提案して、ゲームをはじめた時点で、開始した人が負ける。というゲームのことです。『去年マリエンバードで』では、「去年、マリエンバートで会いましたよね」と男性が女性に話しかけるんですが、その男性が最後死んでしまう、という映画の構造になっています。『レベル5』だと、ゲーム画面にマリエンバードのマッチ棒が登場して、沖縄戦が始まった時点で、ゲームオーバーになってしまうんですよね。勝てないんですよ、絶対に。という中で、その沖縄戦のゲームの存在意義という点で、「ゲームというのは、負けた戦争に勝つ為に作られたんじゃないの?

というローラの問いが生まれて、ゲームを開始した時点で負けてしまう戦争ゲームを作ることに耐えられなくなってしまった旦那の気持ちをローラが理解しようとする、という構図が生まれる。それは、旦那に対する愛があるかもしれないけれど、ちょっと位相が違うかな?という印象です。

沖縄戦とゲーム

金子:「戦争ゲーム」の話に関しては、同じ考えなのかと思いました。『レベル5』においては、ローラの恋人が沖縄の戦争に関するゲーム、そこには戦艦や戦車をどのように配置するかというような、古典的な意味での戦略ゲームをつくっている。ですが、映画のなかの「ゲーム」はそれだけではなくて、資本主義の社会において人々が「マネー・ゲーム」というときのような「ゲーム」というか、あるいは生きた人間がいる現場のことを考えずに、日本の旧陸軍や旧海軍において指揮をしていた幹部のような人たちが、この映画では囲碁の例が出されていますけど、生きた人間や部隊を捨石に使ってしまうような「ゲーム」というものに対して、『レベル5』では批判的に描いているところのがあります。

それでは人間が弄する血も涙もない「ゲーム」の原理に対して、クリス・マルケルはどのようなものを持ちだして、肯定的に考えようとしているのか。先ほど渡辺さんが説明してくださった『ラ・ジュテ』のなかで動画が一瞬入っているシーンがありました。あれと同じようにマルケルは『レベル5』のなかでも、一瞬だけ他とはちがった映像をまぎれこませている箇所があります。ずっとワークルームの部屋のなかで、ローラを撮っているんですけど、一度だけ彼女が外に出るシーンがありますね。それが不思議な林というか森というか、おそらく動物園のような場所なんですけど、孔雀やいろいろな鳥がいて、ローラがそれらの動物と一緒に写っている色鮮やかなシーンがあります。

どうもこの映画のなかでは、「動物」というものに肯定的な意味合いを持たせようとしている。マルケルは大変な猫好きで、自分のプロフィール写真を送りたくないので、肖像写真の代わりに猫のイラストを送ることで有名だった人ですが。マルケルにとって猫という存在は、権力や出世や経済の競争とか、世のなかを動かしている大文字の「ゲーム」に対して、そっぽを向いて「自分はそんなものに参加しないよ」という意志を表明する自由さのシンボルとしてあります。あるいは、OWLというインターネットなのかセカンドライフなのか、『レベル5』のなかに不思議な仮想空間が登場しますが、OWLとは、つまりふくろうというのは、これはマルケルがいっていることですが、ギリシャ神話のなかで、本当の知識を持っている者、単純に頭がいいというだけではなくて、賢人としての知恵を持っている者のシンボルになっています。さらには、ローラが「ココリコ」と呼ぶニワトリなのか極楽鳥なのか、カラフルな鳥のぬいぐるみと会話するシーンもあります。あそこにも戦争や人間社会において「ゲーム」という非道な原理が駆動する力に対して、ゲームが象徴するようなものではない、もうひとつのオルタナティブな存在のあり方というか、人間の知のあり方のようなものを「動物」に仮託して対峙させているように思えてならないですね。

渡辺:今、戦争の話が出ましたが、沖縄戦は、とても直接ドキュメンタリーを作れないので、ローラという人物を挟んでマルケル監督は映画を制作した訳ですが、マルケル監督は自分の映像作品に対して客観的にコメントをする、ということを行っていまして、1961年に『コマンテール』という第三者的な俯瞰した視点で、自分の行為を書く、ということをしているのですが、これは、ジュリアス・シーザーの『Commentarii(コメンタリー)』、すなわちシーザーの『ガリア戦記』のタイトルの引用になっているんですね。つまり、ジュリアス・シーザーは、自分の戦争の記録というものを、「彼はこうした」とか「シーザーは其処に行った」とか一人称で書かないんですよ。それは、ラテン語的な発想と関係していると思うのですが、何かマルケル監督がそこに対するある種の留保を持っていた。というは気にしています。

金子:すごいわかります。四重五重に間接的にしていく。だからもし、自分自身が沖縄戦のような大きな記憶、あるいは歴史的なドキュメンタリーを撮ろうとするときにも、その表象不可能なできごとに対して、やはり戦略的に近づかなくてはいけないと思います。数多くある戦争ドキュメンタリーのように、直接その場所に行って体験者の方にインタビューして歩き、そこに歴史的なフッテージや写真を重ねていって、というのが普通のドキュメンタリーの作り方だと思いますが、深く考えれば、そんな方法ではとてもまともな戦争の記憶に関するドキュメンタリーなんか撮れるわけないのです。

マルケルは慎重に慎重に忍び寄るようにして、沖縄戦の記憶に近づいていってますよね。直線的で歴史的な過去があると仮定して、そんなでっち上げられた大文字の歴史を描くではなくて、一人ひとりの人間のなかに思い出される、そこに想起されるという能動的に生まれてくる記憶を扱おうとしています。そのために配置しているのが、沖縄戦の映像、それについて証言をする人たち、沖縄戦のゲームをつくろうとして亡くなった恋人の存在、それを思い出しているローラといった人たちを撮っています。そのようにマルケルのように何重にも間接的な話法にしていって、沖縄戦の記憶に忍び寄るようなことをしないと絶対に描けないところがあると思います。

ちょっとお見せしたい映像があります。今日の『レベル5』が撮られた空間に、非常によく似ている空間があるのです。これは、2011年にアニエス・ヴァルダがテレビ番組のために、クリス・マルケルのアトリエを撮った映像です。さまざまなイメージの資料が、このアトリエには収集されています。本、写真、イラスト、絵画、ビデオテープ。
マルケル自身の写真集も置いてあります。自分が書いた本、自分が撮った映像作品。そして、このコンピュータの数々とこのコードの多さを見てください。それから、映画で使った小道具がたくさんあります。さまざまなイメージを収集する場所、そしてそれらを編集する場所、いわばクリス・マルケルの脳内が外在化したような場所。それがマルケルのアトリエだったわけです。

渡辺:これ90歳のアーティストの部屋じゃないですよね。

金子:先ほど、アテネ・フランセ文化センターの松本さんからうかがった話だと、マルケルがアルゴス・フィルムの2階にアトリエを構えていたときもあるそうだし、それがこのヴァルダが撮った映像を同じ場所なのかはわかりません。とにかく2011年7月に亡くなる1年前まではこのようなアトリエの空間にいて、ここで撮影したのかどうかはわかりませんが、このような作業空間で『レベル5』という映画のほとんどの部分が撮影されているということですね。映画のなかの設定では6メートルと10メートル四方のワークルームのなかで撮っている設定となっています。

それから、『レベル5』のなかで披露されるクリス・マルケルの手によって次々と生み出されてくる見事なコンピュータ・グラフィックスも魅力的ですよね。それらのメディア作品は、昔から代を変えながら、ずっとあれらのマッキントッシュを駆使しながらいろいろな工夫をして、マルケルが創出してきたイメージだといえます。マルケルは、セカンドライフというヴァーチャル空間内でインタビューに答えているわけですけど、「わたしは芸術家などではまったくない。それよりも、イメージをブリコラージュする職人にすぎない」ということを言っているんですね。さまざまなイメージを身のまわりに収集していって、それを加工したり組み合わせたり、あるいは編集したりしながら、作品をつくっている職人にすぎないんだよ、といっている。それはいみじくも越後谷さんがマルケル論集のなかで指摘なさった「編集の人マルケル」ということだと思います。

渡辺:そうですね。

金子:『レベル5』に関しても越後谷さんは、「これはコンピュータ・ゲームを作っている人という設定になっているけれども、むしろ映像を編集している人を撮った映画だ」という重要な指摘をしていますね。

越後谷:この文章を書くときに、実はDVDを借りて観たんですよね。そのときのモニターで観る体験というのも、文章に影響しているのかな?というのがあるんですけど。これ、今日はスクリーンですけど、モニターで観ると、なんだか合わせ鏡のようで、ベルコジャさんが行っている作業と、自分がモニターを見ているのと、こう、なんか、対峙するような関係になる。スクリーンで観るのが映画なんだけど、「じゃあモニターで観るのって何?」って言っても、『レベル5』の場合は成り立ってしまうというのが非常に面白くて。それはそれ、別の体験として、鑑賞体験として成立する、そういう部分があるんだっていうことは、そのとき感じました。それは、この文章には書いてないんですが…。でも、この映像、ナムジュン・パイクのアトリエって言うかね。

渡辺:かなり近いですね。

越後谷:ナムジュン・パイクとマルケル監督は、全く結びつかないと思われるんだけど、実は、ナムジュン・パイクにも旅を題材にした作品とか、結構、東西を行き来したりというようなモチーフがあったりして。あとは、引用ですよね。パイクも色んなテレビCMを引用して作品を作ったりとかもして居ます。あと重要なのは『ガダルカナル・レクイエム』という、沖縄ではないですけど、第二次世界大戦での激戦地を題材にした、これはドキュメンタリーに近いヴィデオアートなんだけれども。チェリストのシャーロット・モーマンが鎮魂の演奏パフォーマンスを行い、その姿をパイクが撮るという作品で、一種の間接話法的な構造も『レベル5』に似ています。

渡辺:そうですね


金子:そこで『Soul Odyssey』の予告編をご覧頂きましょうか。

渡辺:ありがとうございます。

金子:ナム・ジュン・パイクの話もしてください。

渡辺:そうですね。

▼Page4 『Soul Odyssey』について に続く