【鼎談】クリス・マルケル特集上映記念『レベル5』をめぐって  越後谷卓司×渡辺真也×金子遊

マルケルとヴィデオアート

渡辺:
今おっしゃっていたフィルムとヴィデオの繋がりは、まさに、マルケル監督とパイクの、なんていうのかなぁ?メディア的なものの限界みたいなものと結構近いものがありますよね。皆さん、そのあたり、相当考えたわけですよね。80年代から90年代にかけて。その辺は? 


越後谷:今回ここでは上映していないですけれど、ナムジュン・パイクの上映を名古屋の方で行なって、実はナムジュン・パイクは、ビデオ・アーティストと言われているんですけど、素材としてはフィルム撮影のものもかなり使っているんですよね。当然、フィルムでしか記録がないもの、例えばジョン・ケージの若い頃の映像とか、そういうものがあるんですけど、『ガダルカナル・レクイエム』も、画面をよくよくみると、フィルムの質感で屋外で撮影している、そういう風にしかどうも撮見られない映像があったりして、だから、ナムジュン・パイクに関しても考え直さなければならないな、と私の課題としてあるんですが。今、金子さんの方からもお名前が出たんですけど、ジョナス・メカスとかクリス・マルケルとか、そういった人達の存在というのが、インディペンデント系の映画作家に如何に影響を与えたか?少なくとも「俺にも映画撮れるんだ」みたいなですね、そういう気持ちにさせた、というところがすごく重要だと思うんですね。実は、美術系の作家でも、映像を作っている人はすごく多いんですけど、そういう人達も「クリス・マルケルみたいな感じで映画作りたいんだ」という人、非常に多いんですよ。映像は勿論だけれども、語りの力というんですかね、メカスもそうだけれども、語りと映像がシンクロして進んで行く。という作風で、完璧な映像が撮れなくても、語りで線を作って行って、そこに映像をのっけていく、そういう手法というのが、マルケル監督なり、メカスなりが示唆したんじゃないのかな。と、そういう気がしますね。

金子:ちょうどこの2018年3月にデンマークのコペンハーゲンで、「コペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭」が開かれていて、その関連プログラムでコペンハーゲンのシックスティエイト・アート・インスティチュートというギャラリーで、クリス・マルケルに関する展覧会が開かれました。「ウィズ・オア・ウィズアウト・ザ・サン」というタイトルで、クリス・マルケル、土本典昭、ヴィム・ヴェンダースの作品と一緒に、僕の新作『映画になった男』が上映展示されているところです。これは、クリス・マルケルのエッセイ映画と日本の関係をみせる展示会で、なかなか面白い企画だと思います。

ここではマルケルと日本との関係なので、『不思議なクミコ』と『サン・ソレイユ』が上映されて、ヴェンダースがマルケルを新宿ゴールデン街のジュテで撮った映像も流しているそうです。さらに、マルケルから影響を受けた若い世代の写真作品とか、映像作品を展示しているんですね。ドイツやデンマークの作家が多いんですけど、日本から行っているのが土本典昭さんの『みなまた日記』。マルケルの影響があるとキュレーターの方が思ったんでしょうね。クリス・マルケルの影響を受けた人や作品というのが、これからどんどん表に出てくるような気がします。映画だけに留まらない、アーティストや写真家、物書きやデザイナーやイラストレーターでもいいと思うんですけど、クリス・マルケルの影響って多方面に渡りますよね。そこがマルケルらしくて面白いのかなと思います。

渡辺:私、ベニスビエンナーレで『パッセンジャーズ』を4-5年前に見ました。

金子:
ベニスで観たんだ。うらやましい。

渡辺:はい。ベニスで観て。私、あれを観て思ったのが、パリの地下鉄でマルケル監督がある種隠し撮りした作品が、目線の高さでいっぱい並べられていて、それが絵画的リファレンスが多かったりするんですけど、私はそれを観て、「ああ、これは浮世だ」と思ったんですよね。つまり『パッセンジャーズ』というのは、地下鉄を通っている人々なのだけだけれども、マルケル監督にとってパリの地下鉄というのは、この世なんですよ。だからこの世に私達は肉体を持って生まれて、そこを通過して行くわけですよね。そこに絵画史に現れるようなシーンがたくさん散りばめられていて、それをマルケル監督は、「ファウンド・アートにして、写真作品にして展示することを行なっているんだな」と思いましたね。

金子:例の眼鏡フレームにカメラを仕込んで、地下鉄の中で女性たちを撮った写真集ですよね。

渡辺:はい。

金子:なるほど。渡辺さんはキュレーターで映像作家でもあるわけですけど、そこに東洋哲学や東洋思想が入って来て、アーティティックな感性も入ってきて、独特な教養の持ち主だとあらためて感心しました。


クリス・マルケルが2005年にニューヨークの近代美術館で『ザ・ホローマン うつろな人たち』という8面マルチのインスタレーションを発表しています。8つのテレビモニターがあって、そこにデジタルで加工した写真を組み合わせて、武満徹の「コロナ」という曲がかかり、マルケルが書いた文章を組み合わせたインスタレーション作品。これが40年後の『ラ・ジュテ』と言われていて、写真や静止画から作られている作品だからなんでしょうけど、それを2005年に僕はニューヨークで観たわけじゃなくて、2007年に出版された『ザ・ホローマン』という写真集を手に入れたわけです。で、ここに入っている写真素材から自分でアレンジして、映像として再現してみた2、3分のヴィデオを見せたいと思います。

沖縄戦自体については今日、あまり踏みこんだお話ができなかったわけですけど、クリス・マルケルが戦争という問題をないがしろにしていたわけでは勿論なくて、むしろ非常に深いところで、もしかしたら歴史ドキュメンタリーなどよりもずっと深いところで、戦争を扱っていた作家だということがわかるのかもしれません。本当に『ザ・ホローマン』がいまお見せしたような作品だったかはわかりませんけれども、僕は一種のリクリエイション(再創造)してみたわけです。

クリス・マルケルという人は、自分のプライベートをひた隠しにしてきたようで、実は作品のなかで自分のことを扱っていたというのがわかってきました。例えば『サン・ソレイユ』という映画は、彼の叔父さんのアントン・クラスナという写真家の旅がモデルになっていたりします。『ザ・ホローマン』は第一次世界大戦がテーマですね。マルケルの親や叔父さんたちの世代が関わった戦争です。1921年にT・S・エリオットの『荒地』という詩集が出て、そのあとにエリオットが書いた1925年に「ホローマン」という詩があった。その詩から触発されたマルケルが、さまざまな写真と加工した写真を組み合わせて作ったインスタレーション作品です。

『レベル5』との関連でいうと、第一次世界大戦のヨーロッパでは1500万人くらい人が亡くなったといわれていて、『レベル5』では15万人沖縄の民間人が亡くなったという話が出てきました。そのような大惨事をどのように映像で表象するのか、ということですよね。第一次世界大戦だとあまり映像も残っていないし、写真でしか表現できないということもあったのかもしれませんが。そうではなくて、マルケルは単純に戦地を描いたり、そこで辛い目にあった人達のインタビューを撮ったりするではなく、記憶装置としての人間の顔というものを使っているわけですね。『ザ・ホローマン』には男性も女性も出てきますが、特に女性の顔を印象的に使っている。女性の顔の表象から、ふつふつとわき出てくるような記憶や歴史というようなものによって、戦争を語ろうとしたのではないか。だから『レベル5』という映画でも、「どうしてフランスの女性がずっと出ているんだ」と、この映画を見た沖縄の人は思ったかもしれないけれど、それこそがマルケルにとって戦争という記憶を反芻する、それをイメージによって反芻するための、もっとも誠実な手段であったのはないかと思います。

渡辺:これはタイトルが『OWLS AT NOON Preludeプレリュード』と付いています。「ミネルヴァの梟は夜半に飛び立つ」というヘーゲルの言葉がありますが、すると『Owls at noon』ということは、昼間にいる梟は飛び立たないわけですよね。夜の梟は飛び立つ、それがミネルヴァの梟であって、『レベル5』だと「あなたは夜の梟、私は昼の兎」というローラの台詞が出て来ますけれど、エリオットの詩『The Hollow Men』に出てくる、「頭に藁の詰まった空洞人間」というのは、知性というものを手放した人間のことなのかな?と思いましたね。そして「イメージのように美しい人になれるかしら?」というローラの台詞がありますけれど、イメージだけの人になってしまったのがひめゆりの少女達だと思うんですね。そこから私達が何を読み解けるのか?というのが、私達に突きつけられているのかと思いますね。そして、それを日本の作家が扱わないで、フランスの作家が沖縄を扱った、ということに、私は感銘と、マルケル監督には感謝の気持ちしかありません。

だから、今回DVDに字幕をつけて行なったんですけど、本当に一人でも多くの方に観ていただきたいです。これは沖縄戦のドキュメンタリーではないですけれど、実際に日本人が向き合わなくてはならない問題として残っていることに、ちゃんと向き合って、これから私達も芸術で何が出来るのかと、そこからはじまるのかと思います。

金子:なるほど。息を飲むほど卓越した発言をありがとうござます。最後に越後谷さんがまとめてくださいますか。

越後谷:まとめると言っていいのか自信がないのですけれど、今日、アラン・レネの『ヒロシマ・モナムール』の話しが出たんですけど、これは戦争を体験したのかしないのか、記憶についてどうなのか、という問題提起を、原爆が投下された広島で行う、という映画ですね。じゃあレネの問い掛けに対して日本人の側がどう返したらいいのか?ということで、色んな試みがあったかと思うんですけど、一つの大きな返答になったのは、吉田喜重さんの『鏡の女たち』だと思うんですね。それで、この映画が登場するまでに要した時間、ということを考えざるを得ないと思うのですが、吉田さんの作品は2000年代ですから、40年以上かかっている訳で、恐らく『レベル5』が我々に向けた「日本人は、沖縄戦をどのように捉えているのか?」という問いかけに対して、恐らく答えを返せるには、もっと時間がかかるだろう、今、途上にあると思うんですよね。それとヒロシマの原爆については、まだ日本の中で、例えば慰霊祭がテレビで中継される、といったような形で我々は、目にすることがあるんだけれども、沖縄戦の慰霊祭は中継もないし、やっぱり、ものすごく距離があるし、現実的に遠ざけられているんだと思うんですね。それを引き受けて、更にフィクションとして返答して行くには、恐らくもっと時間はかかると思うので、その為にもやはり我々は、『レベル5』を観る機会をもっと作って行くべきなんだろうと思って、一つの途中経過として、今日のこの時間を終わりたいと思います。

司会:どうもありがとうございました。アテネではクリス・マルケルと並行して、–という作家を追い続けて居て、3月3日にストローブ・ユイレの最新作を上映したことで、20年間かかって、漸く、フィルム・グラフィーをカバーしたんですけど、クリス・マルケルのフィルム・グラフィーを日本語字幕版でカバーしようと思ったら大変ですよね?何年かかるかわからないですね。

金子:5月からパリのシネマテークで、クリス・マルケルの大々的な回顧上映があるみたいですね。

司会:機会があれば、今回のような越後谷さんや渡辺さんのような会場の中からですね、エキセントリックな人から、こちらにボールを投げて頂ければ、必ず誠実にお応えしますので。それから金子さんと渡辺さんは是非、クリス・マルケル集団をおやりになってください。越後谷さん、クリス・マルケルの為にいらして頂いて、ありがとうございました。それでは、これをもちまして、シンポジウムを終わりに致します。どうもありがとうございました。

構成協力:中嶋明日香さん

※写真『レベル5』© 1996 Argos Films


クリス・マルケル特集 開催中!

クリス・マルケル特集 2019<永遠の記憶>
2019年4月6日(土)~4月19日(金)渋谷ユーロスペースにて開催!

公式サイト http://www.pan-dora.co.jp/ChrisMarker/

◆上映作品◆

『北京の日曜日』(1956年製作)
『シベリアからの手紙』(1958年製作)
『ある闘いの記述』(1960年製作) 1961年ベルリン国際映画祭最優秀長編ドキュメンタリー映画賞他
『不思議なクミコ』(1965年製作)
『イヴ・モンタン~ある長距離歌手の孤独』(1974年製作)
『サン・ソレイユ』(1982年製作) 1983年ベルリン国際映画祭OCIC特別賞他
『A.K.ドキュメント黒澤明』(1985年製作)
『レベル5』(1996年製作)