『Soul Odyssey』について
金子:ヨーゼフ・ボイス、ナム・ジュン・パイク、クリス・マルケルへのオマージュなんですよね。
渡辺:森村泰昌さんは、「オマージュと言うよりラブレターだね」と言って下さいました。
越後谷:実は渡辺さんとのやり取りがはじまったのは、これの編集で渡辺さんが凄く苦労されたんですよ。それで、今、完成したバージョンは、渡辺さんの旅みたいになっているんだけれど、最初は、もうちょっと客観的に編集するという作りだったんですよね。でも、それではまだ何かが欠けている感じで、色んな人に相談して、こういう形になったという経緯があります。
金子:このシーンいいですよね。
渡辺:ありがとうございます。
金子:クリス・マルケルに影響を受けて、どのように渡辺さんは、この作品をお作りになったのか。マルケルのスタイルをどのように継承していこうとしたのか。その辺りからお話しいただけないでしょうか?
渡辺:今、まさに越後谷さんからお話しがあったんですが、私、これ『Soul Odyssey』という映画にする前に、『Searching for Eurasia』という、自分が発見したものを綴るような映像作品を一旦作りました。一旦作ったというか、私は映画を作りたかったんですけど、「映像とコメントを繋ぐだけでは映画にならない」とそこで初めて気がついて、そこの気づきに至るまで編集で2年近くかかったんですよね。というのは、3か月旅をしたのですが、やっぱり映像の合計時間が100時間とかになる訳ですよ。それをどうやって2時間以内に収めるのか、その方法が分からなくって。私は今まで学芸員をして来たので、作品を作ったことがなかったんですね。35-6歳になって作品を作ろうとしてみて、どうしようか悩んだ時、私、手塚治虫の『火の鳥』が好きなので、「物語にするなら『火の鳥』のような輪廻転生の12章の構造にしたいな、となんとなく思いはじめたんですよ。そのことを友人に話したら、「お前の話は、ジョーゼフ・キャンベルの『ヒーローズ・ジャーニー』に似ている。」と言われまして。
ジョーセフ・キャンベルは、オデュッセイアから影響を受けたジェイムス・ジョイスが書いた『ユリシーズ』の12章の構造が、世界各地の神話における英雄譚と一致することから、人間の無意識の構造が英雄譚に現れていることに気づき、『ヒーローズ・ジャーニー』を考案、これが映画『スター・ウォーズ』の原型になって来ます。その西洋のオデュッセイアの考え方の12章の上に、私がもともと扱いたかった輪廻転生の構造である東洋の十二縁起を重ねたら、東洋と西洋の思想が一致して、ユーラシアが現れるということを考え始めました。だとしたら、私は13か国を旅したので、大体13か国を12にまとめて行けば、1章10分以内に収めることで2時間以内に収まるな、と計算しました。
最初、私にはマルケル監督の影響が強すぎて、主人公が一切登場せず、全てアメリカ人女性のナレーションで行っていたんですけど、プロの映像関係者4人に「なんでお前が主人公にならないんだ。お前が主人公になってお前の物語にしろ。」と全く同じことを言われて。凄く決定的だったのが、エルヴィン・シュミットさんという、彼はヴィム・ヴェンダースの『ピナ』の3D版のプロデューサーなんですけど、彼に「これお前の映画なんだろ。ヴェンダースは、どんなに英語が下手でも自分でナレーションをするんだ。何故かがわかるか?彼は自分の発見したものの魅力を人に伝えたいからなんだよ。お前には、そういう気持ちがないのか?」と強く言われて、「お前が伝えたいのなら、お前の発見物をお前の言葉と声で伝えなさい」と言われたことがきっかけとなり、このような映画が出来ました。旅に出てから完成するまで3年かかったんですが、それで映画作りを学んで、そのきっかけがクリス・マルケルだったということですね。
金子:なんだか、とても訪れてみたい国ばかりで。クリミア半島とかね、オセチアとかチェチェンとか、そこから中央アジアに入るんですよね。
渡辺:カザフスタン、ウズベキスタンなど。
金子:飛行機を使わずに陸路だけで、ドイツから日本の静岡を目指すという。
渡辺:何故、飛行機を使わないかと言うと、パイクは「電話が生まれるまでは、馬が世界最速のスピードであって、馬のスピードだけでモンゴル帝国が成立していた」と言っていて、それを体感したかったんですね。だから「電車とバスだけを、出来るだけ刻んで行けば、だいたい馬のスピードになる。」と思って、そのスピードで大陸を横断したら、どれくらいになるのか?実験してみて79日間だったということですね。
金子:越後谷さんは、この『Soul Odyssey』という映画をどのようにご覧になりましたか。
越後谷:森村さんが「オマージュではなくラブレターだ」と言われたのが、僕も「なるほど。直球で本質を突いているな。」と思ったんですけど、ナムジュン・パイクとヨーゼフ・ボイスのユーラシアという構想に関するドキュメンタリーなんだけど、冷静に考えればそれを作るのに、クリス・マルケルのフォローなり何なりを導入してする必要はないんですよね(笑)。旅っていうことで言えば重なり合うところがあるんだけれども、それはやっぱり渡辺さんが、「どうしても此処にクリス・マルケルを導入したいんだ!しなきゃいけないんだ」という強い思いがあるからだと思うんですよ。影響というのか、それは、「愛」というのが一番適切な気がするんですけど、だから観ていて「なんでマルケルが?」みたいなところがあるんだけれども、やっぱり渡辺さんが主人公の旅だという映画にしたことによって、渡辺さんは、やっぱり「これをマルケル監督へのオマージュとして仕上げたいんだ」という気持ちが、とても強く伝わってくる。
だから、そういう意味で言うと、『レベル5』って、もうちょっと対象を突き放しているというか、「自分で撮らない方がいい映画になるんだ」みたいな。実際東京の風景なんか本人が撮ってないんじゃないか?って思うんですけど、一種のアウトフッテージというか、映像の引用というのか、そういう段階に行っているわけですよね。だから、やっぱり、それとこれとは別物ではあるんだけれども、そこまで渡辺さんを強い気持ちにさせたクリス・マルケルの影響力というのか、『レベル5』の衝撃度というのか、そういう部分ですね。だから多分、この後も渡辺さんは、映画を撮り続けられて行くのだと思うんですけど、実は奄美の作品(『朝崎郁恵による『哀史奄美』』)というのも、短編を名古屋で上映したんですが。
金子:唄者の朝崎郁恵さんを取り上げたものですね。素晴らしい唄者ですよね。
越後谷:『Soul Odyssey』からかなり変わっていて、彼処らへんからもっと対象との距離感というのかな?そういうものが出てきているんですよね。だから、あくまで『Soul Odyssey』は出発点であって、作品を作って行くことで変化して行くものだと思うから、それを見て行きたいな、と。むしろ、奄美の方にマルケル監督的な突き放し方のようなものが出て来ているので、奄美の映画はもちろんですが、その後の展開にも大いに期待しています。
金子:渡辺さんは、どのような意図をお持ちだったのでしょうか。マルケルのヴィデオ・エッセイをかなり自分の物にしようとしている作品にもみえるんですけど。
渡辺:そうですね。もう何をやっていいのか正直わからなかったので、この映画を作る旅に出る3日前にカメラを買ったんですよ。だから、作品を作ったことがなかったんで。それとパソコン1つとハードディスク1つとカメラ1つで、3か月旅をして何が撮れるかな?というところから始まった、実験的要素が強いというより、もう無謀ですよね。「よくやったな」と思うところもあるんだけど。でも、それはマルケル監督に死の3週間前に、やっぱり「自分の作品を作れ」と言われてしまったときに、「やらないわけにはいかないだろう」という気持ちが単純に強かったですね。
金子:クリス・マルケルには『シベリアからの手紙』という作品もあります。ウランバートルあたりのエピソードを話していただけませんか。マルケルが亡くなったあと、渡辺さんがシベリアのシャーマンに頼んで、霊的にコンタクトを取ろうとした挿話が、とても『レベル5』的だと思うんですが。
渡辺:私が初めて所謂、霊能者の人に会ったのが、2009年の「アトミックサンシャインの中へ」という展覧会を開催した直後だったんですね。この展覧会は曰くつきで、色々と大変なことが沢山あったのですが、憲法記念日にイベントを開催するために再度沖縄入りした時のことです。その時、私は普段、こういうことを思わないんだけれど、どうしても自分のおじいちゃんと話しがしたくなって。私は祖父に溺愛されて育ったのですが、その祖父は文盲で字の読み書きができず、ものすごく酒呑で、でも孫の私をものとても可愛がってくれて、幼稚園生のときから漁船に乗って駿河湾で釣りをしていました。いつも一緒に居たんですけど、祖父は酔っ払うと、毎日、戦争の話しをしていたんですね。その時に祖父が最後にポツリと言う台詞があって、「俺は中国人になりたかった」と言うんですよ。私がそのような会話を聞いていたのが、小学生か中学生だったので、祖父が何を言いたかったのか、分からなかったんです。それを戦後美術展を開催した後に、ふと思い出して、今の自分であれば、祖父と話しすることができれば「きっと意味がわかるだろうな」とぼんやり思っていました。その時、「あ!俺は今、沖縄にいるんだ!ユタに頼もう!」と思ったのです。それから、すったもんだあって、ユタに会って、そのユタともまた衝撃的な体験が色々あったんだけれど、兎に角、祖父を下ろしてもらったんです。
それで下ろしてもらった祖父に「おじいちゃんは何故、中国人になりたかったの?」と訊いたんですね。そしたら、ユタの方が「おばあちゃんに言っては駄目だよ」と言って「中国に好きな人が居たんだ」と。それで、自分は日本兵で武漢三鎮というところに居て、共産党の本部ができたところですよね。自分は好きな人と一緒に居たかったけれど、逃げざるを得なくなって、「俺が中国人だったら一緒に居れたのに」と家族の前では言えなかった。と。そうユタに言われた時に、すごく全身の力が抜けて、「こんなことだったのか」と思って。それが最初の体験で、それから、韓国とか中国とかインドネシアとか色んなところで所謂シャーマンに会いました。私はドイツで入院した時に、所謂、魂の体験をして、「肉体と所謂、意識主体というものと魂のレベルが違うな」ということに気づきはじめて、それを扱うのが宗教学や芸術学だということに確信を持てたので、それを自分のライフワークとしてやって行こうと思い、今続けていて、その延長線上に奄美がある。という感じですね。
渡辺真也『Soul Odyssey』チラシ
『インペリアル 戦争のつくり方』について
金子:なるほど。さて、ここでマルケルにオマージュを捧げた『インペリアル 戦争のつくり方』の予告編を観ていただきましょうか。大変恥ずかしいんですが、『ラ・ジュテ』の影響を受けて、写真だけで映像作品をつくれないか、という試みを行ないました。そのうち、段々と『レベル5』が混ざってきて、女性がワークルームのなかで映像作品を編集しながら、そこに彼女自身が編集している映像が挿入されるという作品になっていきました。もう、そのまんますぎて、オマージュどころか、マルケル作品の二次創作といっていいですよね。(笑)
『インペリアル 戦争のつくり方』を作ったのは2014年のことです。秘密保護法案が可決しそうになっていて、いよいよ安倍政権が「安保法案をやろう。集団的自衛権をやろう」というときにですね、自分は物書きで映像表現もしているんですけど、「この時代に何もせずにいるのは嫌だな」と思ったんですね。それで、クリス・マルケルたちがしていた「シネ・トラクト」という、1968年の五月革命のパリのなかで、映画ビラを作っていた運動を思いだしました。100フィート運動ともいうんですけど、16ミリフィルムの100フィート巻で、だいたい3分くらいの音のない映像を作って、それを労働者の集会や学生たちの集会で上映するということをしていたんですが。そういうささやかなものでいいから、僕自身の手でも何かやってみようと考えた。どうせ作るなら写真だけで作ってみようと考えて、亡くなられてしまいましたが、写真家の福島菊次郎さんの好きな写真集があったんで、福島さんに連絡して使用料を払って、映像に組み合わせてみたんですが、「これだけじゃ、どうも物足りないな」という気がした。そこでマルケルの映画を見ながら色々と考えて、「記憶の物語にしよう」ということになった。たとえば、1945年に日本は敗戦したわけですけど、その100年後の2045年に第三次世界大戦が勃発して、日本にまた原子力爆弾なのか原発施設への攻撃なのかわからないが、日本列島が核の脅威にさらされる。そして日本列島の隅々までが廃墟になったところで、『レベル5』のローラのように、ひとりの女性が、まだ電気が通っている発電所のある部屋に忍びこんでですね、彼女も放射線による健康被害でおそらくもう長くないんでしょう。自分の手元にある映像を集めて、ここ100年の記録映像を使って記憶を振り返りながら、ドキュメンタリーを一本編集する。そういう構成にしたんですね。
越後谷さんによる「『レベル5』というのはゲームを作る映画というより、映像を編集している映画なんだ」という言葉とも響きあいますが、そうやって『インペリアル』はつくりました。アップリンクで二度ほど上映したら、そのあと大阪で劇場公開して頂いて。その後には岡山の上映に行って、それから東京に戻って来て、アテネ・フランセ文化センターの映像個展で上映させて頂いたり。去年の末には、ユーロスペースで開催された映画祭のなかでも上映して頂いて、撮って出しの映画ビラのようにインスタントにつくり、時代の状況に対して即応するために編集した作品ではあったんですけど、わりと幸福にもいろいろな場所でさまざまな人に観て頂けて、作品として幸運な運命を辿ることになりました。完全に『ラ・ジュテ』と『レベル5』へのオマージュでつくった作品になっています。
越後谷:『レベル5』では、沖縄戦という非常に難しいテーマをゲームというワンクッション置いて、間接的に描いています。一方、この作品『インペリアル』に関して言うと、SFという枠組みを作った上で、現実の我々が直面している問題、政治的、或いは、表現に於いても、色んな制約なり圧力なりがかかってくる、という状況の中で、如何に言葉を発するのか、という問いかけですね。後半になってくると、社民党の福島瑞穂さんの話が丁寧にとらえられていて、今だと社民党って勢力が落ちているので、殆どテレビを通して聞くことは出来ないんだけれも、この映画の中では、その声を聞くことが出来たりとか、そういったような、金子さんの活動に一貫してあるマイノリティへの眼差しが感じられる。写真を使ったという点は『ラ・ジュテ』に近いですけれども、SFというフィクションの枠組みは『レベル5』と響きあうというのか、構造を現実の状況に、即応して、活かしている、非常にビビットな作品だなぁと思いました。渡辺さんもご覧になっていますよね?
渡辺:はい。拝見しました。例えば、写真のあのスライドを使って『ラ・ジュテ』的な映画に寄せてしまおうとは思わなかったですか?
金子:どうしてもそれでは成立しなかったんですね。「写真だけで作ったら、もっとすごい作品なったかもね」という人はいましたね。
渡辺:その女性が編集して行くものと現在進行形の、なんて言ったらいいのかな?タイムフレームが1本の線で綺麗に繋がっている、という印象が持てなかったというのが少しあって、なんか写真の創造力みたいなところに、もう少し力を持たせて、モンタージュの力のようなところでもう少しナラティブにしても良いのかな、と観て少し思うところがありました。
金子:自分で詳しく分析することも僕にはできるんですが、あえてそうではない形でお話してみましょうか。10年くらい前まで、自分で映像をつくるときには、8ミリや16ミリのフィルムを使っていて、ジョナス・メカスの日記映画に影響を受けていたので、身の回りにいる家族や友人や恋人を撮ったり、旅をするときに身の回りで起こるできごとを撮っておき、それらが何年後かに映像フッテージとして集まって、記憶の一部分になったときにヴォイスオーバーをかぶせて、作品化するということをしてきましたね。けれども、だんだんフィルムによる制作が厳しくなってきて、現像料が高くなり、現像ですらできなくなってしまうなかで、2009年に『ベオグラード1999』いう最初の長編ドキュメンタリー映画をつくりました。
ヴィデオでも実験映像やアートフィルムの方法論を引きずっていましたから、クリス・マルケルの『アレクサンドルの墓』や『サン・ソレイユ』を思いだしながら、すでにある映像を編集で組み合わせていくという方法をとりました。映像のフッテージが10年分くらい撮りためてあり、そのなかに死んでしまった元恋人の映像もあって、それを単純にドキュメンタリーとしてみせるのではなく、マルケルのエッセイ映画のようなドキュメンタリーの最先端の実験的な手法を使って完成しようとした。起きてしまった事実に対してワンクッションを置くというか、過去の記憶となった映像に対して、10年後の視点からコメンタリーをかぶせていくという手法をとったんですね。それで『ベオグラード1999』を完成したら、当時のアップリンクの支配人だった鎌田さんが観てくださって、「金子さん、これはおもしろいドキュメンタリー映画になっているから劇場公開しようよ」とおっしゃってくださって、4週間ほど公開しました。というのがはじまりなんですね。
「ヴィデオ撮りになっても実験映像をつくり続けたい」と思ったのが、それを実際にやってみたらドキュメンタリーになっていた。「そうか、自分はドキュメンタリーを作っていたんだ」という発見があって、そのあと2本目、3本目と長編ドキュメンタリーを作ってきて、実は4本目も作って先月完成しました。これもクリス・マルケルの影響を受けた作品です。マルケルが『アレクサンドルの墓』のなかで、ソ連時代の知られざる映画監督アレクサンドル・メドヴェトキンにインタビューしたり、彼の映像フッテージを使ったりして見事なエッセイ映画にしています。それを真似て8年の月日かけて、原將人という日本のアヴァンギャルド映画作家のドキュメンタリーを作りました。『映画になった男』というタイトルです。これは完全に最初から「『アレクサンドルの墓』で行こう」と決めていまいた。一人の伝説的な映画作家にオマージュを捧げるような作品ですね。
いま急に思いだしたのが、以前、井土紀州さんという映画監督で脚本家の方と対談をしたときに、井土さんが2007年に『レフト・アローン』という映画を作ってるんですね。それは、この間自殺してしまった西部邁さんとか、スガ秀実さん、松田政男さんといった評論家にインタビューをしていって、写真や映像のフッテージを組み合わせながら、戦後の左翼的な思想史を掘り起こしていく作品なんです。僕の大好きな作品で、井土さんに「クリス・マルケルの影響を受けているでしょう」と言ったら、「当たり!これは『アレクサンドルの墓』なんだよ」といっていた。「どうしてですか」と訊いたら、「実はむかし、アテネ・フランセ文化センターで映写技師の仕事をしていたときに『アレクサンドルの墓』を何度もかけていて、それが自分のなかで肉体化されていって、一度は自分にとっての『アレクサンドルの墓』を撮らなきゃいけないと思ったんだ」というお話をして下さった。「そうか。クリス・マルケルたちは60年代にメドヴェトキンが集団をつくったけど、僕たちで日本でクリス・マルケル集団を作って活動しましょうよ」と井土さんにいったんですが、その話はそれっきりになってしまいました。ここに渡辺真也さんという人が現れたので、クリス・マルケル集団をこの場で結成して、一緒に活動していくのはどうでしょうか。
渡辺:面白いかもしれませんね。
金子:冗談のつもりでしたが、本当にやりますか。
渡辺:(笑)本気にしそうでした。
金子遊『インペリアル 戦争のつくり方』
▼Page5 マルケルとヴィデオアートに続く