【連載】原一男のCINEMA塾’95 ③ 深作欣二×原一男×小林佐智子×荻野目慶子×金久美子「エロス篇」  

『極私的エロス・恋歌1974』

深作  すいません。いきなりあなたのお株を取っちゃう…。

原    いやいや、一向に構いません。

深作  ちょっとわかりにくいところをね、伺っておきたいので。それで、さっき金さんにもね、エロスって何だ?と、エロスって何なんです?っということなんですが、それはボキャブラリーも調整してかからないとあれなんで、端的に原さんがあの中で使われている極私的エロス、極私的はわかりますわね。エロスっていうのは何なのか? それで、今日のテーマのエロスというものは、それとおんなじなのか? 違うのか? そこんところをちょっと…。

原    はいはい。映画のタイトルについての説明かな…。

小林  昨日、深作監督が、あれは、あまり男と女の映画としては見なかったとおっしゃってたのは、そのとおりっていうか、あれは要するに70年代、私たちにとっての70年代の、エロスの、一つの自然な在り方だったんですね。

深作  すいません、エロスって何です?

小林  エロスっていうのは男と女の関係ですね。

深作  関係ですね。

小林  うん。関係が、すごく言葉が先行していて、一つ建前を言って、それにギリギリお互いの関係を攻め合っていくっていうか、ただ、あの映画をやっぱり全部編集し終わって、タイトルをつけようと思ったときに、いわゆる男と女のエロス、一般的な男と女のエロスでは見られないかなって思いがありました。だからこそ、あえて極私的エロスってつけたし、恋歌1974、年号まで入れて恋歌っていうのは、私がつけたタイトルなんですけども。

深作  わかりました。つまり男と女の関係ということに限って限定して使っていいわけですね。

小林  そうですね。

原    この映画のタイトルはね。しかし今から話そうとするエロスについて言えば、エロスっていうのは生きる生と、セックスの性と、当然、エロスとタナトスと言いますね。そこまでも含んだうえでエロスについて語りたい。

深作  すみません、タナトスって?

原    生と死という…。

深作  ラテン語でしたか? エロス、タナトス…?

原    会場の人、誰か知ってますか?

会場  ギリシャ語。

深作  ギリシャの…。

小林  ギリシャ語。

    だそうです。

深作  わかりました。つまり、どうも外国語を簡単に使う癖があるのでね。

原    曖昧によく使っちゃいますけどね。

深作  私の頃にはね、そんなに外国語を使う習慣ってなかったんですよ。

一同  (笑)

深作  誠に、このエロスなどという言葉はね、われわれの日常生活の中に本当に入ってくるとことがなかった。戦後、いろんなかたちでエロスというものが拡大されて、生活の中に入ってきたということはありますけども。だから私にとっても、このエロスという言葉の意味というよりも、持つ感覚ですね。それが非常にわかりにくいところがあるので。と言っても、もちろん私は生きてる人間ですから、そういう問題に無関心では、もちろんおられないわけですけども。時々、これも私の世代の問題かもしれませんが、外国語を振り回されると、ちょっとカチンときて…。

原    そうですか(笑)。

深作  日本語でしゃべってくれ、というようなことがつい出てくるかもしれませんから、よろしく一つ。ここまで整理したら、あとはしゃべれるんじゃないですか。どうぞ。

    そう簡単に振り回されると困っちゃうね。じゃあ、金久美子さんどうですか? 武田美由紀について…。

   武田美由紀さんの今回の作品見せていただいて、やっぱりまず最初に感じたのは、60年代後半から70年代に出てきた女性像。リーダー的な場所で先陣を切って、自分の生き様を示していく。そんな女の人の像だなというのを感じたんですね。感じたっていうのは、私の世代ってのは、その次の世代なんで、実際ああいう男性的な言葉を使ってね、女の権利を主張してくっていう渦中では育ってこなかったんで、それは先輩たちの世代がやっていたものを学んできたっていう場所にずっときたんで。監督さんに見終わったあとに、「これはやっぱり70年代前半にかけて撮ったから、こういう女性の像が撮れたんでしょうか?」っていうふうにお聞きしたんですね。そしたら監督さんが「それはそうだ」と。「やっぱりあの時代だからこそ生まれた女だ」っていうふうに言われて、やっぱりそうなんだなというふうに感じました。

今の、私は舞台中心に仕事をやってるんですけども、今すごく難しいのが、女性のヒロイン像をどういうふうに作っていくか、っていうのがすごく難しくて、特にアンダーグラウンドの中で、唐十郎の小劇場の流れの中ですごく難しいテーマになっていて。初期の頃っていうのは、女性は女性で確かに自立してくと。それを支える男性が、でも必ずいて、作家とか演出家が、自分が託すロマンみたいなものを女性のヒロイン像に託してくっていうのが、ずっと続いてきたわけですね。それは「紅テント」の唐さんが李 麗仙 さんを押したりとか、あと「第七病棟」の緑魔子さんだったりとか「自由劇場」の吉田日出子さんだったりとか。そういうかたちで女性が舞台のうえでヒロイン像をずっと継続してやってきてる、現在まであるわけですけれども。最近は男の人と、男と女の間っていうのが、もしエロスというふうに言うならば、その関係っていうのを、どういうふうに成立したら、男も自由でいられるし、女も自由でいられるかっていう場所を作っていくのかっていうのがすごくテーマになってると思うんですね。

特に、私は自分の現場の実感から、それを乗り越えないと小劇場の限界みたいなものも乗り越えられないなっていうのを痛切に感じてて。ただ私は現場で一女優ですから、作品を書いたりとか、演出したりすることはしてないんで、すごくそういう作家が現れないかなっていうか、これから先どういう女性、新しい女性像を示してくれるかなっていうのが、すごく期待してて、自分でも勉強しなきゃいけないなっていうふうに思ってるんですけども。

ただ今、物語の不在というかね、静かな演劇で、無理矢理…。ごめんなさい演劇の話になっちゃいますけれども、無理矢理ドラマを作ってくんじゃなくて、日常そこにあるものを静かに表現するっていうのが流行ってて。私の劇団なんかは割と無理矢理ドラマを作って、最後に大仕掛けでバーンとこうテントの幕を落として、ロマン、いまだにロマンを持って、ロマンの復権みたいなものをやろうとしてる劇団なんですけれども。そういうこと考えると、物語っていうのが不在だっていうふうに言われてて、この武田美由紀さんの姿なんかを見ると、自分の1人の立場から、物語を作ってく。自分で真実だって思う、そこでうそをどれだけ言わないで、自分の人生のドラマを自分で作っていくかっていう姿勢をすごく感じて。その部分ではパワフルですごい女性だなっていうふうには感じました。

深作  奥崎さんと似てますね。

   そうですね。

深作  自分をある状況の中に意識的に追い込んでいく。その中で何ができるのか、やってみせると。そこでこそ、生きる手応えみたいなもの。女として生きる手応え。それから男とかかわり合いながら生きる手応え。エロスということでしょうか。何か、そういう感じはありましたかね?

金    だからそのエロスっていうのが、男と女っていうだけじゃなくて、そういうぎりぎりのところに追い込む。例えばさっき言ってた、生と死だったりとか、神と人間だったりとか、そういう、セックスでもそうかもしれないけれども、そういう自分の限界のぎりぎりのところで、どれだけ生きていくかっていうところがね、すごい生きる中で挑戦されてるっていうか。それはすごく感じました。

原    もう少し具体的に、説明します。私と彼女との関係を。そっから、何か問題が広がっていけばいいっていうふうに思うんですが。さっき処女と童貞っていうふうに言いました。本当にそうなんです、それはね。肉体的にも精神的にもそうだったんです。まだ彼女が、出会ったときは19歳だったんですよね。高校出て、上京して、すぐアルバイト始めたんですよ。出会ったときは彼女まだ19歳。僕は彼女より三つ上なんですよね。22か…のときに出会ったんです。それで、これはのろけで言うわけじゃないんですが、彼女のほうは最初に僕のほうに思いを打ち明けてきたんですよ。「私はあんたのこと好きだ」って…。こっちはわりといいかげんなんですよね。そういうふうに向こうから言ってきたからつき合ってみようかってなことで、何となく、できちゃったわけです。

付き合いの最初は、彼女は本当にギスギスしてた。その頃私は、言葉ですよね、つまり全共闘用語、学生用語という言葉に関して言いますと、彼女よりは少しだけ知ってた。その彼女の持つ、さっき動物的だっていうふうな言い方で出てきましたけれども、そういうその自分でも何か、何をやっていいかわからない。だから、あっちこっちでぶつかるわけですよね。ぶつかっては途方に暮れて、いらいらして。何かを求めてるんだけど、自分のエネルギーをどこにぶつけていいかわからないっていうそういう彼女を見て、それはこういう意味があって、おまえのほうが正しいんだからっていうようなことを僕は偉そうに言ってたっていう時期が、半年か1年ぐらいじゃないでしょうか。そういう自分のエネルギーを、とりあえずは僕のアドバイスみたいな言葉でもって、自分のエネルギーが正しいんだと、自信を持ってくるわけですよね。

そうすると、今度は勝手に、自分のエネルギーの方向を自分がきっちり決めて、そっちのほうに動き出していくって言いますか。そうすると、そこらあたりから、最初出会った頃は、僕のほうが何となく偉そうに、向こうが惚れてきたんだからっていうようなこともあって、力関係的には何となく僕のほうに余裕があったんですが、ある段階から彼女がそういう自分のエネルギーを自分で操作できるって言いますか、自分のエネルギーの道筋をきちっとつかんだ段階で、力関係がどんどん変わってくるって言うんでしょうか。変わってきたなっていう感じがあって、何かやばいな、これはもっと彼女に対してもっと本気でならなあかんなと思ったときに、ポンッと僕のところを飛び出していったわけですよね。

ちょうどその頃がリブの運動の創造期って言うんでしょうか、始まった頃なんですよね。彼女が僕のところ飛び出していって、そのリブのグループへ飛び込んだんですよね。1年しまして、その頃は最初の子どもが生まれてたんですが、ある日「原くん、私の映画撮らないか」って言ってきたんですよ。沖縄の女たちと出会いたいから、私はこれから沖縄行くんだと。1人でもちろん行ってもいいんだけども「あんたに撮られたいさ。自分でもやるんだけども、あんたに撮られることによって、さらに頑張れると思ってるさ」っていうふうな言い方してましたね。完全に力関係としてはひっくり返ってんですよね。もう一つそれを理屈として言えば、どうも70年ぐらいから、僕の実感なんですが、今、きわめて個人的なことをお話しましたけども、男と女の力関係が70年ぐらいから、女がどんどん強くなっていって、それと全く逆比例して、男が自信を失った時代じゃないかっていうふうに、自分の問題を普遍化していったときに、そんな感じもあるんですね。そのあたりはどんなふうに感じられたか?

金    やっぱり、ご自分から撮られたいって言ってこられたんですか? あれは。

    ええ。

   見てて、どこまで演じてて、どこまで生のドキュメントとしての在り方をしてるのかな?っていうのがすごく感じて。もしかしたら役者以上にすごく役者じゃないのかな?みたいなね。

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