【連載】原一男のCINEMA塾’95 ③ 深作欣二×原一男×小林佐智子×荻野目慶子×金久美子「エロス篇」  

金久美子の遺作『またの日の知華』(05)

女優が演技に求めるリアリティ

原    はい。久美子さん、今の荻野目さんと深作監督のやり取りを聞いててね。演劇の芝居だとその辺はどう?

金    接点っていうか?

原    ギリギリ、詰めていきますか?

金    今、お話聞くと、やっぱり稽古場でね、一言のせりふが言えなくて、もうみんなずーっとスタンバイして待ってるんですけど、1週間ずっとその一言をやり続ける1人の役者に対してっていう、その演出家と役者の関係を見続けるっていう稽古場のシチュエーションが結構ありまして。で、今のお話聞いててね、役者って、自分はこう見られてるとか、こう見せたいとか、あとは余計なこといっぱい考えて持ってくるじゃないですか。で、すごくそれを何も考えないで来るとまたそれも問題なんですけど、削ぎ落としてく、頑固な人ほどいいものとか持続力は持ってるんですけど、自分の癖っていうのが取れない。そこでは必要がない癖みたいなものが取れなくて、それを演出家とやり合うっていうのが割とありまして。

私なんかもちょっと、結構、頑固なほうなんで、演出家が目の前で、こうやってやればいいんだよって演じる、うちの演出家は役者もやってるんで、やっちゃうんですよ。そうすっと、すごく嫌っていうか、だったら自分でやれば、っていうふうになっちゃうわけですよね。生き方も違うし感性も違うのに、何で、こういうふうにこっからこう何歩で動いて、こういうふうに肩に手をかけてとか言われちゃうと、そっから先、自由でなくなってっちゃうというか、だから、そういうふうに演出されると、こっち向いちゃったりとかしちゃってた頃とかもあったんですけど。

あと、演出家でも自分が学ばなきゃいけないとき。去年、勝新太郎さんと『不知火検校』っていうのやらせていただいたんですけども、勝さんの場合は、すごく女形やってもうまくて色っぽくて、世話物の物言いみたいなものが完璧に自由に操れますよね。私たちはそういう世話物やったことないんで、個人レッスン、猛特訓受けるわけです。そうすっと、ものすごく色っぽくて、すごい、そういう場合は学ばせていただきますみたいなかたちに。で、そこを通過しないと自分の味が出ないっていうか、独特のものが出ない。

あと、一度そこを学んじゃえば遊んでいいんだよとか、本番は、遊んだ楽しんだっていう言葉しか来ないわけなんですけども、そういう場合もありますけども、荻野目さんの「四谷怪談」のときの役を見て、すごくエロスを感じたんですよ、私は。そのエロスっていうのがどういう言葉かはっきりは説明できないんですけれども、さっき言ったみたいに、本当に生きている生と死の間だったり、神がかったりとか、計算じゃ出せないもの。そこにある、役者を乗り越えちゃってるっていうのかしら、存在が。荻野目さんが出てくるシーンっていうのが、すごく不思議な、言葉で説明しきれない在り方をしてるなっていうのがすごく感じて。

で、今、お話聞いてて、逆に監督さんがこういうイメージで、こういうしゃべり方でこのトーンでやってくれって言ったら、できてなかった、多分。言葉で説明しきれない在り方のリアリティっていうのかしら。さっき言ってた1週間かけて削ぎ落としてく、無駄なものを削ぎ落としてくっていう作業と、あるいは、最初から何も与えないで自分の限界ギリギリのところを自分で挑戦してって、そこのリアリティを作っちゃうっていう。何かそういう現場だったんだろうなっていうのを、お話聞いててすごく感じたんですよね。

原    もっと根掘り葉掘り聞きたいんですが、ちょっと話を飛ばしますね。それで、荻野目さんにお聞きしたいんですけど、狂った役が多い。で、演じるってとても快感でしょ。もちろん苦しいでしょうけど、しかし、やっぱり快感あるわけでしょ。

荻野目 はい。

原 で、快感っていうこと知った人間っていうのは、もっともっと、とやっぱり求めるもんだろうっていうふうに思うんですよね。狂った役なんて、多分、役いろいろあるんでしょうけど、それでもやっぱり面白い、面白さがたくさんあるっていうか、つまり、最も面白い役なんじゃないかって勝手に思ったりするんですが、僕がお聞きしたいのは、狂った役を演じ続けていくと、あるいは演じることの快感を知ってって、そういうことを続けていくと、ふっと自分は本当に狂うんじゃないかっていう感じがあるのかないのか? これは本当に観念的な質問です。そういう感じってあるんですか? ないんですか?

荻野目 っていうより、自分でいつからかよくわからないですけれど、狂気っていうものに関して、ものすごく興味があった。割と読んでたものとかが、どっか逸脱した感覚を持ってる人の伝記とか、書いたもの。最後に狂って死んじゃうとか(笑)。だから、あこがれはすごくありますね。だから、自分の中で常に善悪の彼岸に行きたい、彼岸、ギリギリのところ。本当にここで落ちるんじゃないか、だから高いところとかスピード感とかすごく好きなんですけど、いつも危ういところにいたいっていう欲求はすごく強いんです。それでいながら、矛盾してるんですよ。そういう自分のほうが強いんだけど、20%ぐらいすごい安定した、何だかもっと優しい自分になれるといいなっていう願望もあるんですけれど(笑)。

原    それは、ある役を演じることで自分の中の狂気の部分が癒されるものなんですか? それとも、ますます研ぎすまされるものなんでしょうか? それは、理屈じゃなかなか答えにくいことを私は聞いてるとは思いますけれども、いろいろ波あるんでしょうけれども、この先、演じ続けていって、どっちのほうへ自分は行くんだろうっていうふうなことは考えたことありますか?

荻野目 どっちのほう?

原    つまり、さらに自分が本当に狂っていくんじゃないかというふうに思う瞬間、あるいは役者として狂ってることを演じることによって救われてるって。もし演じなければ、もっと本当に狂ったかもしれないっていうふうなふうに思うのか、それはわかんないんで、今ちょっと、観念的に聞いてるんですけども。

荻野目 でもね、「智恵子抄」の智恵子さんみたいに、本当に自分、狂ってしまったって言っていいか、何か言葉にちょっと。ああいうふうになられて、そのときに初めて、ご自分の死をあんなふうに自由に切り絵にしても、言葉にしても、創作でできるようになられた。何かいろんな世俗の部分から離れて、ああいうふうになれたら本当にいいなと思うけれど、多分、私みたいな人間は、本当には狂わない。それでやってる間中、狂気といつも、自分の中の狂気って、何だか一人暮らしなんかしてると(笑)、本当に他人にはもちろん、家族にすらも絶対見られたくないような部屋に住んでたりして、ひどい暮らしをしてるときもあるんですけれど、そういう自分を置きながら、こんな自分なんて本当に嫌だわって思って、本当に切り捨てたくなっちゃう自分がどんどん高まってきてることのほうが多い気がしますね。狂う役が多くて。

    多くてね。

荻野目 だって自分が、何ていうか(笑)、よくわかんない(笑)。

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