深作 どうですか。
小林 やっぱり、製作っていうか、裏方、つまり『さようならCP』のときも『極私的エロス』のときも、全くもう映画が作りたいっていうだけで始めましたので、何にもないんですね。機材もお金も何にもなくて、ただもう作りたい思いだけが先行してるし、撮る素材が、何だかもう、やりだしたら大変だっていうことで。それで、よく、会場で塾生の人たちからも聞かれたんですけど「嫉妬したんですか? しないんですか?」とか、よく聞かれるんだけど、そういう余裕がなくて、必死でお金を作ったり、で。まさかよもや、私が出るなんてことは夢にも思わなかったんです。そしたら彼がそう言うし。ああ、とか思いながらも「映画のためだ」とか言われると、そうか仕方ないかなとか思って。今でもやっぱり釈然としないんですけどね。なんか出てしまって…。
一同 (笑)
小林 「映画のため」とか言われるとだめなんですね。でも私は武田さんが、一時期原さんに対してよりも武田さんに対してのほうが、本当に身震いするほど熱いって言うかね。いいなって思ってた時期ってホント確実にあるんですね。その思いがあるから作れたっていうか、だから原さんとの関係で武田さんを撮ったっていうんじゃなくて、本当に原さん抜きになっても武田さんに、もうホントにパッと鳥肌が立つくらいいいなって思うときがありました。
荻野目? それは具体的にはどういうときですか?
小林 やっぱりね、さっきも言いましたけど、私は田舎から出て、ボーッとしてて、今でもそうなんですけど、あのときにガンガンやられるんですよ、私のこと。要するに、やっぱり彼女のほうが、先陣切ってる、時代の先陣をやっぱり切ってたんです、感覚的にね。それをもう、おまえのここがだめだっていうことをバーッとやられたときは、やっぱ男と女の関係のときも、やっぱり自分を鍛えてくれる人に対する憧れってありますでしょう。
だから私にとっては一時期、原さんよりも武田さんが、やっぱり憧れの対象っていうか、ありましたね。本当に言葉つき一つにしても、さっき言いましたように、やっぱり鍛えられるっていうかな。それはすっごくホントに一生に一度の出会いっていうか、もし武田さんにあんなに鍛えられなかったら、ちょっとやっぱり、もう本当に、今でもトロいんですけど、そのトロさがもっとあれだったんじゃないかなと思います。女としても人間としても。ホントにあれだけ真剣に彼女が私に対して、言ったりやったりしてくれるってことは、そういう関係ってなかなかできないっていうかね。男と女とか、女と女っていうのを、なくなりますよね。女同士でもやっぱり。
金 それが、見ててすごく不思議でした。いろんな関係がどんどん、どんどん…最初いろんなベクトルがあったのが、どんどん、おり混ざってって。最後に関係って言葉自体もなくなって。何か一つのコミューン…不思議な…何て言っていいかよくわからないわ。
原 もう少し具体的なお話を2、3しますよね。出産のシーンがありますね。最初の武田美由紀のね。十月十日になって、いよいよ生まれる。出産のシーンが、言ってみればこの映画のメインって言いますか、彼女の目指したアクションの最高のシーンになるはずなんで、こっちも構えて撮影をやったわけです。ほいで、私あそこの出産のシーンで、びっくりっていうか、意外というか、失望というか、不思議な感じがしたのは、いよいよ陣痛が始まって、いざ生まれるっていう瞬間に近づいていきますよね。そのときに前提として、武田美由紀が、「苦しい」って頑張ってますね、いきんでますね。そのときに小林がすぐそばにいて録音取ってたってことがあるのかどうか、でもそういうことじゃない、やっぱり本質的なことなんだろうと思いますけども「小林さん!」って言ったんですよね。僕カメラを回してても、それがわかってるわけですよ。えっ?と思ったんですね。「原くん」って言うんじゃないかな、っていうふうに思い込んでたんですね。それが「小林さん」って言うのか!と思ってですね。あれはちょっとショックだったって言いますかね。そういうもんなのかな。出産だからそうなのかっていう思いが今でも残ってますね、そこの感じが。
深作 それは、すごくよく覚えてますね、私も。小林さんに訴えるように、すがるように。それはまあ、あなたはカメラ持ってるから、力学的にも助けてもらえないんだけれども。だけど小林さんはマイク突きつけてる。これも大変な作業だったと思うけれど、突きつけてるほうも。それに向かって、小林さん助けてくれというつもりで言ってるわけじゃない。非常に訴えかける相手としては、同性としてたやすかったと思うし。終わると「こん次は小林さんの番だね」と言いますね。
原 そうです。
深作 何かそこら辺が、それからこの産湯浸からせながら、夕べも申し上げましたけれども「原くん」とかいって、何かこの、コケティッシュな目をして。
原 そうです、そうです。
深作 そういうところがね、お芝居、一生懸命われわれが作ってきたお芝居の中では、なかなかすくい取れない、いい芝居だなと。虚構だからうんぬんということじゃなくて、あそこまでいくとやっぱり、それが名優であるかどうかは別問題として、あっぱれの演技者としての心掛けだと。それは奥崎さんの場合も、フィルムがなくなりゃ、ジーっと見てて、また「あなたはね」と言う、さっきのお話とおんなじように、これもやっぱり裏方というか、撮っている人間を超えての、演技者の鏡だろうという感じは持ちましたね。
お芝居の世界だと、いろんな、例えば見物から野次が飛んだり、何かしてくる。そうすると、辞めちゃう人もいるんですよね。もちろん辞めない人もいる。平然と続ける人もいる。やっぱりその違いってのは、どういうことなのか。その人の資質の違いなのか。状況にもよりますけれども、この武田くんの場合も、奥崎さんの場合も、ほら、自分で嫌になって辞めちまうというわけにはいかないという、思いきかせ方があったんでしょうがね。その迫力だけは感じましたね。まあ、こんな状態じゃお芝居できないということは逆に、あなたたちの場合には、また容易に想像できるし、考えられることだと思うけれども。すいません、どうぞ。
原 (笑)。一気にもう一つだけ。四谷怪談の中で、お岩さんが子どもができますね。それで民谷伊右衛門が「いろんな男と寝てるだろう」と。「俺の子かどうかわからない」と言いますね。彼女は「いや、あなたの子だ」自信を持って答えますね。一般的に女の人は不特定の多数の男性と性的経験を持ってると…これは吉本隆明さんの言葉なんですが、いくら多数の男性と性的関係を持ってても、妊娠したときに、この子の父親が誰であるかを女の人は絶対知ってるもんだというふうなことを書いてらっしゃっる。
最初「沖縄の男の子どもを妊娠しました」って手紙が来るんですよね。で、そこから十月十日を計算したわけですね。彼女が抱いていた最初のロマンというのは、大陸を旅をしながら、それで産み落とす、と。自力出産で。こういうイメージだったんです。ところが実際には大陸は難しいんで、ちょっとスケールは小さくなるけれど、沖縄から鹿児島へ至る小さな島がたくさんあります。そのうちの割と大きな島が五つあって。鹿児島に着くまでにそのどこかの島で生まれる予定で旅に出たわけです。だけど産まれないんですよ、十月十日を過ぎても。「おかしいね、おかしいね、おかしいね」って言いながら、鹿児島に着いちゃったんですね。その時、もう暮れのギリギリで、すぐ正月になるもんですから。お金もなくなったし、1回帰ろうぜって、彼女は岐阜の実家に、しょうがない、と帰ったわけです。僕らも東京に帰ったんです。
それで、正月にはいよいよ産まれるかもしれないっていうんで彼女の実家へ、カメラを持って、この人(小林)と押し掛けたんです。そこで生まれたらこれは凄まじく大変なことになるわいと思いながら戦々恐々と乗り込んだんです。彼女の実家っていうのは、僕と彼女が、もう離婚、別れてるのは知ってるわけです。で、彼女が実家に転がり込んだときにはおなかが大きいってのは、それはわかりますわね。この人(小林)も、やや大きかったわけですよ。で、カメラを持って乗り込んじゃったんで、これは修羅場がそこで展開するんだろうと。本当に怖かったんですが、それでもしょうがねえ、撮るしかねえだろうなんて、かっこよくありません、ものすごい怖かったんですよ。まあ覚悟して行ったんです。
それで、正月、そういう変な雰囲気だったんですが、お雑煮なんかとか、おせちとか、ご馳走になりながら、親も一言も言わなかったんですね。しかし、いつ生まれてもいいように準備はしてた。それでも生まれないんです、これが。1週間たっても、10日たっても産まれないんですよ。2週間近くいたのかな、さすがに間が持たなくなりまして、東京へじゃあ戻るわと。「何かあったら連絡くれよ」っていって東京に引き上げたんですね。
で、その翌日に彼女が東京出てきたんですよ。その頃には妊娠したであろうときから、もう1カ月過ぎてたと。予定日は1カ月を過ぎちゃうと、これはちょっと母体にとってよくないということで、彼女は東京へ出てくる前に、僕は具体的にはよくわかんないんですが、出産を促すような棒を体内に入れるというふうな説明でした。それを入れてきたというふうに説明してました。で、着いたその夜に産気づいたと、こういうシチュエーションです。ところが彼女自身が自分が産んだ子を見て、これ混血じゃないかって言うシーンがありますね。こういうシーンをもしドラマで書けば、絶対リアリティを持たないだろうと思うんですよね、もし書いたとしても。ところがこれは本物の話なもんですから、まあリアリティっていうことで言えば、まぎれもなくリアリティがあるわけですよ。それで僕は、女だってやっぱり、わかんないのか、っていうことが、ひどく面白かったんですね、そのことが。何が言いたくてこの話をしたかといいますと(笑)、深作監督に、女ってそういうもんみたいですよって話をしたかっただけなんです(笑)。
深作 確かに私もそのせりふ覚えてますけど「これ黒人じゃねえか」と言ったあとで、すぐ納得したような顔をしてましたな。やっぱり予期したとおりというか、思ったとおりというか。事によったら違うんじゃないかと思ってたわけですか?
原 どうなんでしょうね。一時期「これ、あんたの子どもかもしれないよ」っていうせりふはね、しつこくは言いませんでしたが、1回言ったことありますね。だから、どうなんでしょうね。どこまで本気で誰の子どもかってわかってたかどうか。だって生まれてみて、ああ、やっぱりそうかもなっていうふうに納得させたっていうことはあるでしょうけど、しかし、沖縄の男の子の子どもを孕みましたっていうところから、予定を立てて出発したわけですからねえ。男の私にはわかんないわけですから、やっぱある程度そう思ってたんじゃないかというふうにも思いますよね。その辺は、事実は小説よりも奇なりって(笑)、どう言えばいいんでしょう。事実のほうがはるかに意外性があって面白いっていいますかね。フィクションは絶対かなわないはずだっていうふうには思いますよね、こういうところはね。こういうふうな話をすると、フィクション側としては何も言えなくなりますね。
深作 そうですね。大体、フィクションにばかりこだわってきたことは今まで申し上げましたけれども、同時に、フィクションの限界といいますか、一番弱いところ。これは、自分でも嫌というほど、撮りながら感じてきたので、そこをどう踏み越えていくかと、その弱点を。それは実際には、その弱点というのはないわけですよ。作られた台本、あらかじめね。それから、それに基づいて俳優さんが決まって、またそれに基づいていろんなスタッフが集まって、照明を準備したりセットを準備したり。それで、せーの、で始まるわけですからね。どう間違ったって、それは作りもの以外の何もんでもない。これはお芝居でも同じだと思いますがね。
それで、そこまで疑いだしたら、これは劇映画ということは成立しないわけなんですが、それじゃあそれを今度は撮っていく過程の中で、みんなにそれを要求しても無理ですから。それから、俳優さんは撮られるほうなんであって、もちろん自分でイメージをなさる方もいますけれども、さまざまにまたイメージに基づいて。それも、劇映画を何本も作ってこられた経験則に基づいて、一つの演技というものもなさるんだろう。それでまた、現場でいろいろスタッフとか共演者とかとの葛藤の中で、ますますそれを観念的に肉体化していく作業を俳優さんはなさってるわけですよね。
それがちょっと、まあ人によっては大芝居すぎやせんかとか、せりふに節がつきすぎやせんかとかいうようなこともチェックはするわけですが、せりふに節がついて何が悪い、これ映画によりますからね。時代劇の場合なんかは、そんなぶっきらぼうじゃ、どうしようもないと。現代劇のテレビのお茶の間番組撮ってんじゃねえんだというような要求の仕方は、例えば四谷怪談の場合なんかは、作者になんかにも、随分、ダメ出ししましたし、それで着物を着たことないのは結構だけれども、着物を着たことのない女性が座ったり立ったりしてたらあっという間に衣装は着崩れてあられもない格好になって、これはまあ、時代劇としては成立せんと。だから本当に、膝小僧を擦りむいて泣き面下げながらも、そういう特訓だけはしてたわけですわ。
それで、そこから先に、今度はこちらが俳優さんのお芝居にどう関わり合っていくかをスタッフと決め、その中で今度は私自身がどう関わり合っていくか、そこから先に、例えばお芝居のリズムにしても、頭の中にあるリズムと飛び離れても困るわけですから、いろんな注文、細かい注文も連発し続けるというような、フィクションの作り方の現場はそういう段取りを、心がけとしては、私は監督しか知りませんから、心がけとしてはそういうふうな手順を踏みながらどこまで自分自身も予期できないイメージをそこに作り上げることができるかというようなことなんですよね。
だから、確かに子どもは誰の子か、女だったら知ってるはずだということも大前提としてはそういう認識があったように思えますが、あれを言わせたのは、女だったら絶対知ってるもんだという大前提に乗っかったわけではなくて、疑わしそうな目で言いますよね、男が。そんときに普通の女だったらまた傷ついたり、相手の男をこてんぴしゃんにやっつけたりしますよね。そうしない女であるわけで、お岩さんというのは。つまり、男のあんたにはわかんないけど、女のあたしにはわかんのよ、けっけっけという、そういうところが決まれば、その内実はどうでもよろしいと、せりふの内実は、というような気持ちで撮ったわけで。
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