劇映画の現場におけるリアリティ〜『忠臣蔵外伝 四谷怪談』の場合
原 ああ、なるほどね。荻野目さん、昨日深作監督が、実は荻野目さんに食ってかかられたっていうようなこと、ちらっとおっしゃってたんですが?
荻野目(笑)
原 食ってかかったことはまあいいんですが。食ってかかるときに、もちろん何かを求めて食ってかかりますよね。その何かをっていうのは多分、理屈を言うようですが、やっぱり何か自分なりの手掛かりっていうか、つまりリアリティを知りたくてっていうか、リアリティを求めて監督に多分聞くんだろうって思うんですが。だからもしよければ、どういうつっかかり方を深作監督にするのかっていうことを聞きたいなって感じがあるですが。
荻野目 あのときは撮影期間中、ずうっと反抗児だったもんですから(笑)。いや、っていうか状況が言葉をしゃべれない役ですよね。お梅さんっていうのは小さい頃、頭を患って言葉を失ってる。あのかつらとあの着物をずっと着てて、5月だったか6月、熱い京都であのメイクをしてると、とにかく1日何にも、人とこうやってしゃべってるともう、あっという間に顔が崩れちゃって疲れてきちゃうんで、もう本当に撮影期間中、ずうっと自分を孤独に縛りつけてなくちゃいけなかった。それでいて、役の中でも自分でコミュニケーションできるわけじゃない。だからものすごい欲求不満というんでしょうか、きっと自分自身の欲求不満がたまってたんだと思うんですね。
自分で一番、監督に失礼なことをしたなって今思うと、本当にたくさん思うのは、毒を飲ませたあと、私の両親、おじいさんとおばあが。伊右衛門が「毒を」って言って、またお岩さんのもとに戻ろうとして、私が「おお」って言ってそれを叫んで止める。あのときの叫び声に関しては、絶対にこの力強さ、どのぐらい力強いのか、あるいはどれぐらい哀れなのか、どのぐらい動物的なのか、それは監督が作られてたシチュエーションだから、絶対にこれっていうこの強いイメージがあるんじゃないかしら。この音、この響き、この顔みたいな、それをはっきり教えてほしいっていうふうにすごく思っちゃったんですね。何度もあのシーンは、その前にいろいろバタバタこういう動いてるのがあって、ものすごく体力的にも、ばてやすかったので、ある程度自分でそのテンションの高さっていうのを確認しておかないと、現場って時間と自分の体力と精神力とのせめぎ合いみたいなところできてるので、それを正確に把握してないと、きっとそこで一番いい部分が出し切れないだろうっていう怖さがあったんだと思うんですね。で監督にお聞きすると「俺だってわかんないよ」って(笑)、
原 俺だってわかんないよ…。
荻野目 そうおっしゃることが多かったんですよ。お梅さんに関して何度がお聞きしたときは「わかんないものを撮ろうとしてるんだから」って監督はおっしゃって。私は撮り終わって四谷怪談って映画を見終わったときに一番感じたのは、監督のわからないわからないっていう言葉は何度お聞きしたかわかんないですけれど、監督ご自身すらもわからないっていう未知の部分を持ってる映画っていうのが、もしかしたら一番面白いんだっていうのを、すごく驚きとして感じました。だから予定調和じゃないっていうんでしょうか…。
原 監督から具体的にはわからないって言われて、じゃあどうするんですか?
荻野目 だからもう何だかあれこれ必死でやってみるしかない…。
原 それが狙いで「わからない」っていうふうに言うとか。
深作 いやいや、あのね…。
一同 (笑)
深作 まず脚本は書いたわけですよね。その脚本で書いたものは渡してあるわけですわ。それで一応、脚本読んで、そんときからもうごちゃごちゃ反抗は始まったんですがね。まず言ったのは、「リアリティがない」ということですよ、さっきの。
原 やっぱりリアリティって言葉を使うわけですよね、はい。
深作 「どう、そのリアリティを作っていいのか、わからない」「おまえさん、この前に、デビューのときに芝居で『奇跡の人』やったじゃないか。『奇跡の人』のあれでいいんだ。あれでやってくれ」と言うと「『奇跡の人』にはちゃんと、その必然が書いてある」と言うわけですよ。
原 書いてあるというのは、台本読めばわかるという意味ですね。はいはい。
深作 台本読めばわかる。つまり、子どもの頃、病気になって周りのリアクションの中で閉ざされた少女が、最後にいろいろ言葉を獲得してくわけだけれども、言葉というものの存在を。その狂った様、三重苦ですね。聞こえない、見れない、しゃべれないか。それでこう、ただイヌにだけはなぜかこうなるとかさ。それでそれは、すごくわかる。お梅だけはわからない。わからないと言われても困るわけですよね。
それは正直言えば、あれはヘレン・ケラーっていうのは実在の人物だから、いろんな症状も研究済みで、ああいう脚本も生まれたんだということはわかりますが、そんなとこ飛ばしているわけですよね、こっちは。それをいちいち追っかけていくあれではないから。だから経験則に基づいて、あの様でいいんだと。それでそれが、単にかたちで終わってしまうようだったら、そこんところはチェックするし、こっちも責任上ね。とにかく思ったとおりやってくれと。「思ったとおりだけど、どんな声、出すんです?」って。どんな声出すんです?っていうのが一番困るんですよね。わかりませんよ、そんなことは。とにかくやってみてくれ。やってみて声が小さかったら「もっと高く」とか、何かガンガン言うから。それが度重なってくると、もう、怒っちゃうわけですよ。それで「そんな権威のないものなんですか、監督は」と、しまいにはこういうこと言うから「権威のないものなんだよ、それは」と。
原 (笑)。いやまあ、その権威のあるのないののやり取りは、おいといて、それで荻野目さんね、じゃあどうします? そんときに。やってみてくれって言われて三つか四つかパターンを一生懸命やってみるんですか? それで監督の反応を探りながら確かめていくとか…。
荻野目 っていうか、やっぱしそういうときは、何かこう、演じていくって、何か自分が限りなく動物的になっていくしかない。何ていうんでしょう。わからないっていうことは、まだどっかで理性、考えるっていうことが作業として残ってる。思考の作業っていうのが。何かそんなとこ超えて、もう本当に疲れ果てるまで、パッションの勝負っていうんでしょうか。監督は特にそういうタイプ、仁義にしても何にしてもそうじゃないですか。何か人間の、どっちかっていうと私は監督の映画で魅力的なのは、生理で動く人間、本能で動く人間。だからきっと監督の現場って、人間の本能を、こうやって牙を、自然に出させていくっていうことなのかしらって。だから何か狂った人間がお好きみたいで。で、特に私にそういう役ばっかり(笑)。
原 ええ、それはまさにそうなんですが。やっぱり、狂うってことをきっちり演じなきゃいけませんね。つまり演じている自分をきっちり見てなきゃいけませんよね。やっぱりプロですもんね。で、その狂っている自分をきっちり見なきゃいけない。その見てる自分っていうのは、まあちょっとおいといてですね。じゃあその、狂ってる部分ってのは、どう造形していくんですか? その引き出し方を私は聞いてみたいんですね。実際に現場で、三つか四つのパターンを用意したんですか?今おっしゃったたことをもう少し細かく…。
荻野目 この声のとき? この役のときっていうことでいいんでしょうか?
原 うん。その今の狂うシーンですね。あの前後のときに、やってみてくれて言われました、で、動物的になってくって今おっしゃいました。
荻野目 イメージとしてはこう、やっぱり動物だな…、私、演じるときって動物のイメージをすることが多くて、このときはなんだったのかな、鳥の体、羽をむしられて最後にギューって首をもぎられ、クチューってやられる。最後の声みたいな。最初にして多分最後の声みたいなのをイメージしたのかな。何だか。ほかは全部音がない、言葉が、せりふがなかったので、表情とかは監督が見せてくださった、最近昭和の時代とかに見るお雛様の人形の表情と違って、何かこう痴呆めいてたんですよね。何かこう、あられもないとこ見てて口がふぁーって開いてて、何とも言えない、浮世を漂ってる表情だったんですね。でそれを見たときに、あ、この顔だったらやりたいって初めて、少し接点が見つけられまして。
深作 ドキュメンタリーとフィクションの違いについて、もうちょっと争えば、メークひとつからですね、衣装合わせってのがありますよね。ドキュメンタリーでも漠然と衣装合わせってのはやるのかな?
原 やりません。
深作 やらない。
原 はい。
深作 奥崎さんの場合も、こういう衣装着てくださいとか?
原 奥崎さんは、あの人、商人なもんですから、移動中はユアサバッテリーのユニフォーム着てんですよね、作業服。いざ相手に訪問するという段になると、こっちがカメラを構えるからわかるわけでしょ。すると背広に着替えるんですね。だから自分で勝手に、きちっと背広に衣装決めてですね。
深作 武田くんの場合にはどうでした?
原 そういうことはあんまり意識はしてなかったと思いますけどね。
深作 やっぱりそうね、奥崎さんなんかの場合に衣装を着替えるということがつまり衣装のね、持ってる意味といいますかね。まずは形から入る、そういう芝居の作り方ってあると思うんですよね。
原 ありますね。
深作 奥崎さんの場合はそうだったんだろう。そういう形から入ることを拒否する入り方もありますよね。それが武田くんの方法だったんだろうという感じでは見ていたわけですが、例えば今の荻野目くんのことに即していけば、衣装一つ、うーん、どうも違うな、違うな、もっと派手に。それから、そん次はこのメークになるわけですよね。渡辺さんもそうだったんだけども、当たり前だな、当たり前だな、もっと白く白く、写真持ってこい写真を、何でもいいから持ってこい。スタッフルームにたくさん積んでありましたから、そん中でパーっとめくって、能面を見つけてこれだ、これでやってみよう。やってみようというのも、時間かかるから大変なんですけども。
とうとうこの白塗り、ついでにそうしてみると、あとはもうしめたもんで、荻野目くんが白塗り、乳母が白塗りならお爺さんが白塗りでないはずはない。こういう論理になってって、どんどん3人白塗りになってきますよね。それでそこへ、また上乗せしていって婿入りする。伊右衛門っていうのがいる。そうすっとあなたも白塗りでないはずはないと渡辺くんかなんかが言い出しましてね(笑)。そりゃそうだ、そのとおりだ。そういうふうにドンドンドンドン、エスカレートしていく、イメージがエスカレートしていく楽しみってのは表現の世界にあるわけです。フィクションの世界にね。
だからそういう、何といいますかね、遊び方がフィクションという、今までずっとやってきた中で、四谷怪談の場合には一番楽しかったのは、何せお化けも出てくるし何でもありですからね、あの映画は。やっぱりフィクションの、トコトン何をやってもいいものなんだと、アナーキーになればなるほどいい。という思いがずっと撮影しながら私ん中にあったわけですが、それで果たしてそういうものが、原さんが提出された、今日の場合はエロスということであるわけですが、エロスというテーマに適うかどうかってのは大変疑問だったわけですけれども。相対にドキュメンタリーと、それからそのフィクションと、虚構というようなコントラストから言えば、一番感激が対比になって、それはそれで面白いんじゃないかというふうにも思ったもんですからお願いしたわけです。折にふれてというかフィクションとドキュメンタリーということの関連でね、エロスというやつも考えていけばそれなりに、僕はあんまり得意な話題ではないけれども話ができるかなというようなことも含めて、今ちょっとお話したわけですけど。
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