【連載】原一男のCINEMA塾’95 ③ 深作欣二×原一男×小林佐智子×荻野目慶子×金久美子「エロス篇」  

原一男監督

    (笑)、はい、わかりました。それで本当はもっといろいろお聞きする準備をしてたんですが、もう時間なので、残念ながらここら辺で切らないといけません。それで監督、一つだけ確認しておきたいことがあるんです。初日の日に、狂い舞いって言葉を聞いたような気がするんです。これは、狂い、舞う、というような意味合いでおっしゃったのか、つまり狂い舞いって一つの名詞でおっしゃったのか、確認したかったんです。

深作  私の場合には狂い舞い、という一つの名詞のつもりでした。

    これはどっかに出典があるですか? それとも深作さんのオリジナルの表現ですか? 僕はこの言葉、一番大好きです。今日まで話した中で。

深作  うん、私も何かで読んで好きで使ってるんじゃないかと思いますが、何で読んだのか今、定かではないんですけれど、お能か何かの中に、そういう、修羅の舞…。

原    修羅の舞、修羅の舞は聞いたことありますね。

深作  修羅というのはやっぱり、亡霊が出てきて文字どおり狂い舞いをする。そこで、念力、つまり仏法に説き伏せられて物悲しげに去っていく。船弁慶の中での平知盛の亡霊とか、あれなんかがこの狂い舞いの典型なんですよね。僕はやっぱり、お能の中では船弁慶の知盛が一番好きですし、それから、それが歌舞伎の中でも受け継がれていろんなことをしている。それから、あんたと一緒に見たかな。お姫様が、キツネに取りつかれて、狂って狂って、湖をかけわたって恋人助けに行くという、そういう…。

荻野目 八重垣姫。

深作  え?

荻野目 八重垣姫。

深作  八重垣姫やな。そういう、狂い舞いです。狂い舞い。だから、なぜ好きかというと、やっぱりどっか、私が踊るわけじゃないんだけど、狂い舞いを自分の映画の中でしてるんだろうなと、そういうことですね。

原    よくわかりました。私ももっと狂い舞いしないといけないな、っていうふうに思いに駆られる、っていうか駆り立てていかないといけないっという、本当に日々そんな感じがありますね。年を取れば取るほどそういう実感が強くなってくっていうのがありまして、そういう自分が何かとても怖いんです、私はね。死がやっぱり私はまだ怖いですね。そういう思いを抱きながら、とりあえず当面10年、突っ走ってみようかっていうふうに考えてはいるんですが。ということで、3日間、深作監督、それで今日はお二人に来ていただきました。おつき合いいただきまして、ありがとうございました。監督本当に、どうも、ありがとうございました。

深作  どうもどうも、おつかれさまでした。

会場  (拍手)

司会  ゲストの皆さん、どうもありがとうございました。ここで原監督と、

    僕は実は荻野目さんにもっと時間があるはずだったんで、もっとお話したかったんですけどね。昨日、パーティの会場で「原さんもちょっと逃げたわよね」っておっしゃった。

荻野目 (笑)

原    僕も少し、昨日の話は、ちょっと逃げながら話をしただろうなってやっぱり自分で思うところあったんですね。監督もちょっと逃げてるとこあるな、と思ったんですよね。

深作  何の話、してんの?

原    お互い、いや、昨日パーティのときに「原さんも逃げたわよね」ってちょっと彼女言ったんです。確かに自分でもそう思ってんですよ。

深作  何について?

原    話し合いそのもののやり取りがね。じゃあ、どこが逃げたかって、彼女の目から見て、そっから問題をほじくり返してまた突っ込んでこうかってふうにも思ってたんです。時間が切れちゃったんで、ちょっと残念ですが、また機会を改めて深作さん、もう一度どっかでやりますか。もう二度とやだというふうに思わないでください。

深作  いいや、別に、大変楽しい3日間でした。

原    いや、私も本当に。

深作  それはやっぱり、われわれだけではなくて、聞いてくださる、聞いてくださっていた皆さんの存在っていうのはすごく大きいわけですから、これが全然いくらしゃべっても話が通じない相手というのも世の中にいたりして、こういうときには、あとあと疲れたり嫌になったりすることありますけれども、おかげさまで大変楽しい思いができましたので。

原    どうも、ありがとうございました。

会場  (拍手)


 

 【登壇者紹介】

深作欣二(ふかさく・きんじ)

1930年茨城県水戸市出まれ。日大芸術学部を卒業後、東映に入社。1961年に『風来坊探偵・赤い谷の惨劇』で監督デビュー。72年『軍旗はためく下に』でタシケント映画祭平和賞。73年『仁義なき戦い』を発表、仁義シリーズ5部作を発表する。その後、テレビ時代劇『必殺シリーズ』の第一作『必殺仕掛人』で鮮烈な幕開けを行い、深作が考案したキャラクター「中村主水」が確立される。そのほか『柳生一族の陰謀』(78)『魔界転生』(81)、『蒲田行進曲』(82)などの娯楽作を多数手がける。2003年3月12日、『バトル・ロワイアルⅡ』撮影中に逝去。

原一男(はら・かずお)
1945年、山口県生まれ。72年、小林佐智子(現夫人)と共に疾走プロダクションを設立、同年ドキュメンタリー映画『さようならCP』で監督デビュー。次作『極私的エロス・恋歌1974』(74)を発表後、撮影助手、助監督を経て、87年『ゆきゆきて、神軍』が日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリを受賞。94年の『全身小説家』もキネマ旬報ベストテン日本映画第1位など高い評価を受ける。06年から大阪芸術大学映像学科教授に就任。14年2月、大阪・泉南のアスベスト被害者に6年間にわたって密着した『命て なんぼなん? 泉南アスベスト禍を闘う』を発表。また同年4月から、東京・アテネフランセで、セルフドキュメンタリーの魅力を深く掘り下げるセミナー、new「CINEMA塾」を開講中。

小林佐智子 (こばやし・さちこ)
1946年新潟市生まれ。新潟大学人文学部仏文学科卒業。72年 原一男と共に疾走プロダクションを設立、プロデューサーとして『さようならCP』『極私的エロス・恋歌1974』『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』を製作。04年には劇映画『またの日の知華』を脚本・製作。11年 4月より大阪芸術大学映像学科客員教授。

荻野目慶子(おぎのめ・けいこ)
1964年(昭和39年)生まれ。埼玉県出身。昭和学院高等学校卒業。1979年(昭和54年)、舞台 『奇跡の人』のヒロイン・ヘレン・ケラーの役を選ぶオーディションに合格し芸能界入り。その後、テレビの若者向けバラエティ番組 『YOU』(NHK教育)の司会や、映画 『南極物語』への出演などで、タレント、新進若手女優として知られるようになる。その後も、テレビ、映画、舞台と幅広く出演。

 金久美子(キム・クミジャ)
1958年、長野県生まれの在日韓国人3世女優。東京経済大学短期大学部卒業後、劇団黒テントや新宿梁山泊などの一員として活躍する。1989年には「千年の孤独」で多くの賞を受賞し、さらに「愛乱」では主演を務めた。1990年の「狂った愛の歌」でも賞を受賞。その後も日本でも演技派として、映画や2時間ドラマ等に幅広く活躍した。2004年に胃癌のため死去。享年45。原一男監督の劇映画『またの日の知華』(05)が遺作となった。